今年大学に入ったある卒業生が、

最近は何でも「やばい」で済ませてしまう自分に気づいたという。

遅刻しそうでも「やばい」

食べ物がおいしくても「やばい」

「やばい」の中身を語らずに

すべて「やばい」で済ませてしまう。

だんだんとボキャブラリーが貧困になっていくことに

危機感を持ったそうで、

友人と「『やばい』を使わないことにしよう」と決めたという。

さすが、わが卒業生である。

先日吉川先生と最近の入試英語の中身のなさについて話していた。

今の入試英語は条件反射的に反応することが大事で

「思索」を必要としないのである。

哲学の歴史を見ても、

そもそも英語が思索的言語ではないように私は思っている。

単語の範囲が広いから、多くをカバーできる。

個人も、部品の一つ一つも「individual」である。

しかし、世界言語としてはその性格が好都合である。

日本語は世界言語に向かないであろう。

しかし、その利便性に目が行き過ぎて

便利英語に浸りすぎれば思索力が衰える心配がある。

最近の英語教育の方向は

思索力の低下と軌を一にしていると思えてならない。

英語コミュニケーション力をどうしてもつけたいのであれば

大学入試の英語と別科目として作ればよいのではないか。

英会話の文章に適切な文を入れるなどという問題を見るたびに

そんな問題を作る英語専門家の思索力の無さが嘆かわしくてならない。