東大生グループが
執行猶予付きとは言え
有罪判決を受ける事件が起こった。
罪状は犯人が誰であろうと厳罰に値するものであるが
世間では「現役東大生」であることがとりわけ話題となっている。
それは世間が東大生に抱いているイメージと
現実とにギャップがあるという問題であろう。
世間は東大生に最高レベルの知性を期待しているのに
実際にはこんな東大生がいることへの驚きであるはずだ。
「どこの世界にもへんなのはいる。」では片づけられない失望と怒りなのである。
これは本人たちの問題であると言えば言えようが、
一方で教育の世界で求められる知性というものの
レベルの低下、浅薄化が根底にあるように思える。
日本人は向学心旺盛であり、テレビではクイズ番組が視聴率を取って花盛りである。
それはよいとしても、
出される問題は知っているか知らないかの問題であり
高校生クイズとやらを見ると
「何々を何というか」で早押し競争である。
あげくに、東大生と京大生の対決だとかいう番組までやっている。
東大や京大も知性と無縁になりつつあるようである。
そもそも本当の知性の持ち主がそんなテレビに出てくるはずがないのだから。
娯楽番組にそんなに目くじらを立てる必要もないのではという意見もあるであろう。
しかし、大学入試問題がこのパズル・クイズレベルになってきているから困るのである。
夏目漱石を読んだことがなくても、小説名を答えられれば点数がもらえる問題に
何の意味があるであろうか。
昨年文科省が国立大学に対して出した
「すぐに実益が上がる学部に特化せよ」との通達も同じ土俵にある。
漱石や鴎外を読み、あるいはヘルマン・ヘッセとともに若き悩みに沈潜し、
軽い情報処理英語ではなく、
英語で表現された筆者の深い思索を追う青春のときを持っていれば
先の東大生は生まれなかったであろう。
本来受験勉強とはそういうものであり、
その十代の思索のありようを問うのが入試問題であるはずである。
かつての旧制高校生が
カント・ヘーゲルの深みへの挑戦を当たり前にしていた水準を
いつの日か取り戻したいものである。