学びの二種

以前、人を育てることに関わって面白い新聞記事があった。
ひとつは、クラウゼヴィッツの『戦争論』を引用してのある仏文学者の随筆である。そこで引用されていた以下の文はなかなか面白いので再録させていただくことにする。

「将軍は、車両の構造や馬を砲架につなぐ方法について理解する必要はないが、各種の状況のもとで一縦隊が行進に要する時間を正確に見積もることを知らねばならない。このような知識は、全て学問的な公式や体系によって習得できるものではなく、ものごとの考察や実生活において的確な判断を行い、またそうしようとする才能を働かせることによってのみ習得できる。(中略)豊富な教訓に満ちた実生活は、ニュートンやオイレルを決して生みはしないが、しかしコンデやフリードリッヒ大王のような高度な軍事的洞察を可能にする才能を生み出すであろう。」

ここではふたつの学びが対比されている。「豊富な教訓に満ちた実生活」からの学びと、数学や物理といった「学問的な」学びである。もとより世間は後者について賞賛するが、前者もまた劣らず重要であることを主張しているのである。

私がこの記事を面白いと思ったのは、クラウゼヴィッツはさすがになかなかいいことを言うなと感心したからではない。ここで取り上げられている二つの学びが別々のこととして扱われていて、両者の関係に言及されていないからである。そこに現代の日本の学校教育の問題が二重写しになって見えたからである。

ニュートンやオイラーは大変な天才であったであろうが、同時に「豊富な教訓に満ちた実生活」からの学びもたくさん積んだに違いないのである。人間の学びには両方が必要である。そして言うまでもなく順序は「豊富な教訓に満ちた実生活」が先であり、そしてそれは年齢を重ねようとなくすことはできないのであり、一生涯続けなければならない。「学問的な」学びはそれに並行して、それに関係付けながら進められなければならない。人間の成長過程における両者の順序は、あくまで「豊富な教訓に満ちた実生活」からの学びが先であり、そのあとに「学問的な」学びが始まらなければならない。これは当然のことであろう。子どもの成長過程を見ればわかるように、まずは生の事実を自分の眼、自分の耳、自分の鼻、・・・つまり全感覚器官を総動員していわば体全体で味わい体験することから学びが始まる。この体全体での生の学びが豊かで濃いほどにそのあとの「学問的な」学びも豊かになろうというものである。花をさわり、昆虫をとり、川で魚を釣り・・・したことのない子供が生物の教科書だけいくら暗記しても学力は付いていかないことくらい誰でも理解できるはずである。

早期教育はよいことなのか?

しかるになぜか早期教育がもてはやされる。早くから文字を教え、早くから算数を教え計算をさせる。先日韓国の天才少女がテレビで紹介されていた。小学校1、2年生なのに英語、フランス語、日本語、中国語の家庭教師がついて、各国語をペラペラ話して見せる。学校には行かないのだという。ただ、週末だけ公園で同じ年頃の子どもたちと遊ぶ。食事は栄養など考えず、好きなラーメンを短い時間で済ます。好きなものを食べる方が精神衛生上よいし、時間を有効に使えて合理的だとは本人の弁。私はその子の将来が恐ろしくてならない。それをよしとしてむしろ満足げに見つめている親の愚かさをテレビはなぜ問題にしないのだろうか。世間がそれをよしと考えているからである。それだけ世間がおかしいのである。大人の社会が歪んでいるのである。

学問は大変有効である。なにしろそのおかげで私たちはたいへん物質的に豊かな生活を享受できている。しかし、物事は二面性をもつのであり、一方にばかり目を奪われすぎると落とし穴に陥ることになる。学問は現実から乖離する面があるということである。虚数i(ルートマイナス一)なるものはかりに何らかの効能をもつとしても現実には存在しない、人間が創りだしたものである。それをあると思ってしまう危険性がある。ばねの長さとおもりとの関係は実際には一直線にならない。しかし、理論的に一直線とみなす。

先日生物の先生と話題になったのだが、今は教授資料がどんどんよくなってきて、発生の様子とかをグラフィックで動画として見せることができるという。若い先生はそれを積極的に活用しているそうだ。しかし、グラフィックで割り切って理解しやすく作ってあるだけに、逆に実際の発生とは似て非なるものだという。だが、生徒たちはそのグラフィックを目に焼き付けて現実と思っていく。それが怖いという。だからその先生はあえてこの時代にアナログで言葉で説明していくようにしているという。賛成である。

「学問的な」学びは「豊富な教訓に満ちた実生活」からの学びとつながっていて初めて有効なのである。8-5=3という計算を8,5,3という数字それぞれのイメージが頭にあった上で答えるならば意味があるが、小学一年生はイメージなくも表面的な暗記で答えを出すことができるのである。それを親や教師はしっかり見極めないとまったく異なる学力ができあがることを覚悟しなければならないだろう。

十年前、私の父が心筋梗塞で倒れた。何とか一命を取りとめて、峠を越したところに私が病院に駆けつけた形になったのだが、もう医者は引き上げていて、あとを受け継いでいたまだ30歳前に思える若い医者が私に説明をし始めた。心筋梗塞はこういう場合は死亡の可能性が何%で、またこういう場合は何%でとすらすら数字が出てくる。私は説明を聞きながら、「ああ、習った教科書の知識をそのまま口から出しているんだなあ」とある意味ほほえましく思ったことを覚えている。まだ医者としての「豊富な教訓に満ちた実生活」を積みようがないのだから、順番が逆にならざるを得ないのはこの場合仕方がないが、へたをするとそれが修正されない現実が少なからずある。そのことを多くの指導者たちが気付いているのではないだろうか。

受験勉強、然りである。受験の本当の実力は「豊富な教訓に満ちた実生活」からの学びの上に積み上げられる「学問的な」学びとしてはじめて養成されるものである。とりわけ中学校まではしっかりと「豊富な教訓に満ちた実生活」をしてこなければ本物の実力はつかない。その大事な時期に、ビデオゲームやインターネット三昧の生活をしてきたらどういう学力になっていくのかは容易に予想可能であろう。とくに理数系科目は「ニセの実力」でも数字としての成績は出せる性質を持っている。それを本当の実力と錯覚してしまうことが恐ろしい。

もう十年以上も前に優秀な高校生を高2から大学に入学させる飛び入学制度が始まった。その若者たちはその後どうしているのだろうか。さぞや華々しい活躍をしているのかと思いきや、現実は逆であることが追跡報道番組で紹介されたという。それによると、高校時代に相対性理論を理解したという触れ込みの高校2年生が飛び入学で千葉大学に入った。今31歳の当人は塾講師と大型トラックの運転手で年収270万円。妻子を抱え、赤貧洗うが如しの生活だという。優秀な人材を日本社会が活用できていない問題を指摘する向きもあるようだが、私は彼の学力が本物なのかが問題であろうと思う。「高校時代に相対性理論を理解した」という時点で、それは「豊富な教訓に満ちた実生活」とリンクしない空虚な「学問的な」学びであった可能性が高いと見るべきであろう。実力の中身をしっかり見定めず、数学や物理の難しい問題が解けるからという表面的な偏差値にだまされて飛び入学などという制度を作ってしまう「学問的」な大人たちの気の毒な犠牲者でしかない。大人社会の罪こそが問われるべきであろう。

試行錯誤の教育改革

しかしそれが近年の傾向かというとそうでもないらしい。もうひとつの新聞記事は、明治以来文部科学省(文部省)が行ってきた教育制度改革が失敗と改革の繰り返しであったという内容の記事であった。旧制高校の入試制度もその加熱振り(久米正雄の『学生時代』新潮社を読まれるとよい)が問題となり、改革をするとまた弊害があらわれ再改革を繰り返したという。近年では「ゆとり教育」の失敗が記憶に新しい。前回の『羅針盤』で、英語教育の軽さを指摘したが、記事の中に次のような文面があった。

「『日本の学生は英語は読めるが、しゃべるのは苦手とよくいわれる。今はうちの大学でも両方だめになってきた』と、さる偏差値トップ級大学の先生が言った。背景や行間が読み取れないらしい。」

笑い話ではすまされないわが国の現実である。おそらく、医学教育界でも同じ問題が起こっているのではないだろうか。数学ならばある意味「学問的な」学びをどんどん進めていってよい世界である。そういう人たちだけの、そういう人たちだけが分かる世界が構築されている。しかし、医学は他の学問と比べても「学問的な」学びが「豊富な教訓に満ちた実生活」からの学びに支えられていなければならない分野である。しかし、医学生が学ばなければならない教科書の厚いこと厚いこと。「豊富な教訓に満ちた実生活」からの学びが先行しないこの教科書での「学問的な」学びは一体どういうものとして医学生の頭に入り、どういう医学生の頭脳が形成されるのであろうか。そして彼らが人の命を預かるのである。

時代が下って学問が複雑になるほど、「学問的な」学びが「豊富な教訓に満ちた実生活」からの学びから離れて、一人歩きし始める恨みがある。それだけ、教育する側はそうした学びの傾向性をしっかりと認識し、教育の王道を外れないように学生たちを導いていく責任があろう。

最先端の科学技術の粋を集めた大工場の生産は、町工場の匠の技能に支えられながら成り立っているように、学問においても「学問的な」学びの進展は「豊富な教訓に満ちた実生活」からの学びに支えられて前進していけることの理解が教育界には必要のような気がする。

これまでの教育改革の失敗はいずれも「豊富な教訓に満ちた実生活」からの学びを等閑視して「学問的な」学びだけをこねくり回していることから来ている面を見過ごすわけにはいかないであろう。人間の認識というものは現実に根ざしたものでなければならない。しかし、現実の現象的なレベルにとどまらず、そこから抽象度を上げて「学問的な」法則性を扱っていかなければならないのもまた事実である。しかし、そのとき、現実に両足をしかと下ろしていないと、中身のない勝手な記号遊びが一人歩きしていく危険が絶えずあることを肝に銘じなければならない。その極端な例が高学歴の優秀な人材がいともたやすくカルト教団に入信していく現実である。

それを極端と笑えない現実が教育改革の根底にあるということを知るべきであろう。数ヶ国語を話す幼児を天才と持ち上げ、微積の問題を解く小学生をこぞって寵児に仕立て上げる。そうした社会的土壌が小論文がうまい生徒を学力があると誤解した国立大学後期試験のお粗末を生んだのだという自戒が文科省を筆頭とする教育界に何よりも必要なのである。

 

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