GHS長野校・主宰の天野です。
私は、高校時代まで、山口県の下関で過ごしました。(安倍晋三の選挙区です)
だから一応、長州人です。地元で最も敬愛されている人物の1人である(安倍さんは入りませんね)
吉田松陰の「講孟余話」にこんな一節があります。(ちなみに、地元人は「松陰先生」と呼ぶ)
「妄りに人の師となるべからず。又妄りに人を師とすべからず。
必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。」
とあります。言葉を置き換えれば色々と学ぶことができます。
「体系的に教える」メソッドありて
大学進学教育GHSは、高校では教えてもらえない、他では教えられない学習メソッドを
1993年の開校以来、一貫して追究して来ました。
その一端は、本部のHPに「テキスト公開(リンク)」のベージで一般公開されています。
HPやパンフレット等で、「驚異の伸び」「抜群の合格率」「体系的指導」・・言葉だけなら尤もらしいことを
いくらでも書けます。だったら証拠を見せろ!! 「そうだ、金さんを出せ」となるのは必定ですが、
それは付いていないのがふつうです。
GHSでは、せめて「頭をよくする体系的教育」の具体的なあり方を、これらのテキストを通して伝えたくて、
惜しげも無く、ほとんどのページを公開しています。公開しても簡単にパクったり真似たりできないものだし、
それはまた、わかる人が読めば、その本質的な違いがわかるからです。
実際、ご父兄の方で、テキストを熟読され、「ぜひうちの息子に・・」とおっしゃっていただけること少なからず。
とても嬉しいことです。そういう「共鳴」があってこそ、その後の「信頼」と「伸び」につながるからです。
もちろん、ご本人が、その若さにも関わらずGHSの本質を感じ取って来られると最高であり、
指導によって高校の進路指導の先生には信じがたい驚異の伸びを果たすことは、
この他のブログの記事で紹介している通りです。
少人数しか指導できないので、「共鳴」できる人、その可能性を持った方をこそ待っているのです。
真に試す中身ありて
最近は、自分の高校の中で色々な模試を受けられるようになりました。
私の高校時分の地方の県立高校では、(ちょうど長野高校のような進学校でしたが)
予備校の模試はまだ高校に入り込めてなくて、提携予備校まで行かないと受けさせてもらえず、
校内でやったのは旺文社模試とか学研模試とか、教材配給者と結託したとしか思えないマイナーな模試を
いやいや仕方なく受けさせられていました。だから、受験者層も偏り、判定なんて何の参考にもならず、
三年生になると、背に腹は変えられず、関門海峡を越えてわざわざ博多まで駿台模試を受けに行ったものです。
河合塾の京大オープンは、どこかの私立大学を遠くまで足を運んで借りてやってました。
ところが今は、少子化・浪人生の減少もあり、予備校の方が浪人生の「青田刈り」のためでしょう、
高校にすり寄っているようです。高校は公立私立問わずそのビジネスモデルに取り込まれています。
進路指導セミナーと称して、休日には予備校の講師や職員が受験情報を提供するサービスさえやっています。
何が言いたいかというと、あれこれと模試をやりすぎ・模試の受けすぎです。
河合塾と駿台とベネッセ等の全てに高校側がいい顔すると、生徒はいくつもいくつも模試を受けねばなりません。
しかも、その費用は「諸費用」で引き落としされ、出席するのが当然のこと・・という旨の指導があります。
休日に何しようと自由なのに、出席が義務化しているのが実情です。公立高校で、これはダメでしょう?
受けなくても模試代は返却されません。これはホントはマズいことでしょう。
でも担任の先生も中間管理職ですから、「受けるのは自由だよ」という本音は言えません。
試すべきことありて、模試を受けるべし
大した実力もついていないのに、全国レベルの模試を受けるなど何の意味もありません。
模試を受けると力がつく、なんてことはありません。跳ね返されるだけです。
スポーツの例でいうと、地方の大会の一回戦で勝てるかどうかでやっているレベルで、
全国大会に出るようなものです。野球ならめった打ち、即コールド負けです。
でも、模試というのは「受験資格」が必要ありませんから、試すべき何もない生徒も受験できます。
そこには何の意味もありません。手も足も出ない模試なんて時間の無駄でしかありません。
模試の主催者は数が多いほど儲かるというだけの構造です。
そんなことで土日を潰すくらいなら、模試で試すべき実力をつけるべく刻苦勉励すべきです。
「試合」をどんどんやれば上手くなるというのは、あるレベルを超えてからでしょう?
でも高校教師は助かっています。テストもその分析も受験情報も、また浪人先も予備校が丸抱えしてくれるのですから。
こんなおかしなことになっているのに、それが「当たり前」だと生徒も保護者も高校教師も思うようになってしまっています。
<続>