恒例! 数学対談
・・・といっても、ブログにアップするのようになったのは昨年からですが。毎年のように、数学担当の依田先生とは意見交換はしてきましたが、センター試験では書くほどのことはなかったのに対して、昨年に輪をかけて今年はさらに評価の芳しくない数学については、やはり今年も文章化しておきたいと思います。
天野(A): 数学は、IA,ⅡBともに「難化」したと騒がれていますので、私も化学・物理の次に早々に一通りやってみました。「早々」と言うのは「漢文よりも先に」ということですが・・・。日頃は数学まで触れる暇はないので、年に一度のリハビリみたいになっています(笑)。
私は私で、感触・感想がありますがそれを言う前に、まず質問です。色々と言われている「形式」はともかくとして、純粋に<数学の問題>として見た時の難易度はどんなもんでしょうか?
依田(Y): 私立の医学部の入試問題より難しいね。数学ⅡBより、数学Iの方が難しい。
A:確かにそういう感じです。そのまま、私立医学部の入試問題としても使える、ということですね。私立医学部が共通テストを利用する定員枠を作っていて、その選抜に相応しいように作られている、と思えてしまいます。
「入試数学あるある」になりますが、数学ⅡBでそんなに難しい問題は作れませんよね。これに対して、数学Iの整数問題なんて「難問」はいくらでもあります。
ということは、別の見方をすると、共通テストだの、私立医学部だのという数学の区分けや境界がなくなって、数学そのものを極めれば良くなったとも言えますね。私も、「センター試験の数学」対策として取り立てて勉強した覚えはありませんね。数学は数学であり、形式がちょっと窮屈なだけで。
Y:そういう点は確かにあるけど、共通テストは、とにかく数学のテストらしくない。数学以外の余計な部分がくっついていて、文章を読み慣れていない受験生は大変だったと思う。二人の対談があったり、ムダに日常的な設定があったりするので、そんな沢山の日本語を読まないと数学に入っていけない。数学にはあんなの必要ないんだよ。
A: 「二人の対談」は、解答の方向性や、別解の可能性を絞ったり、ある方向に誘導するのに使ってますね。そういうのは、昔から、ふつう、問題文の中に埋め込まれていて、問題文の誘導にしたがって解くようになっているものです。それを「対談形式」にしたところで、やることや拾うべき情報は変わりないので、無駄といえば無駄です。
Y:そんな風に、誘導だとわかって、必要な情報だけ拾って読み飛ばせれればいいんだけどね。それは「デキる」受験生だよ。真面目に読んじゃうと無駄に時間がかかるんだよ。数学に辿り着く前にエネルギーを使う。
A:ふつうは、問題を見て、解き方の方向性をいくつか想定して、出題者の誘導の方向に合わせるものです。解答の自由度を制限するのは共通一次からの伝統です。しかし、確かに、そのための対談形式は要らないと思いました。問題文に書けば良いだけです。読んでから考えるのではなく、自分で解き方を色々と想定しておいてから読むと、その網に引っかかってくる、という感じで解くものでしょう。なので、私としては、「親切だなあ」とさえ感じましたが。
数学問題における「日常性」について
A:では、もう1つの無駄「日常性」です。数学IIBの問題4<「自転車と歩きの行ったり来たり」という設定ですが、これは物議を醸してますね。そんなにヒドイのか、と逆に興味が湧いて実際にやってみました。
ん?・・・やってみると 中々良い問題じゃないですか? そういう規則的な動きをする二点があって、その繰り返しの規則から漸化式を作る。与えられたグラフを利用して、作図しながら交点を求めていけば難なくできます。漸化式の応用として良い問題だと思いましたが・・・。所詮、数学ⅡBの範囲ですから、こんなもんですよ。
Y:いや、そりゃ、できる人は、そんな風に、余計なところをスキップして、問題の本質を見いて、要するに漸化式作ればいいのか、と見切ってサクッと解けるんだけどね。普通はそうはできない。真面目なヤツほど文章に付き合って、無駄に時間を使ってしまうんだよ。そこに到達するまでに余計な時間がかかってしまう。でも数学の試験としてはその部分は全く要らない。
A:70点以上の合格点をとった生徒達に「あれ、どうだった?」と聞いて見ましたが、「楽しかったですね〜」とか、「ふつうに解けましたが・・・」のようなリアクションで、苦労なんてしていないようです。出来るできないの本質的な差が顕れる、という意味でも良問ですよ。
あれが出来なかった人は、数列の、漸化式の学びがしっかりと出来ていないということでしょう?それを棚に上げて、事例が非現実的だから・・とか文句を言うのは、勉強不足を白状しているようなもので、本当は恥ずべきことなんだ、とわからなきゃいけないでしょう?
Y:数学の実力としては、そう。数列の問題としては難しくはない。
A:ところで、自転車が人を追いかけるとかいうような、具体的な状況設定は、数学Iにも、昨年度も見られましたね。
Y: 昨年も話したように、共通テストの数学のコンセプトに「日常性」というキーワードがある。数学教育の現場では、数学離れが問題となっていて、日常的な例で数学が活用できる、ということを示して興味を持ってもらおうというような意図があると思う。共通テストの数学は、その「日常性」をこういう形で取り込み、範を示そうとしているわけ。
A:だったら、「日常性」と言うことを取り違えていますね。数学で役につ日常性なんて無いですよ。平凡に暮らしている人間が、数学を役に立てる場面なんてないですよ。そんな日常性は、寺子屋的な「算数と読み書きそろばん」で十分間に合うですから。
この日常性は、せめて、民間で宇宙ロケットを飛ばすとか、斬新な形の建物を立てるとか、津波の到来を予測するとか、コロナのピークを予想するとかいう、人類レベルで解決したい問題としての「日常性」に立ち向かって初めて、数学を役立てるべきものでしょう?
Y:そう、「日常性」ということの解釈が変なことになっていて、こんな「非日常的な設定」になってしまっている。
A:なんだか、どうも、具体化するにあたってのセンスがないんですよ。せめて、「二点がこんな動きをするゲームを考える」くらいに抑えておけばよかったかと。将棋だって特異な動きをする駒がありますから。
Y: 日常的な例を持ってくるときのセンスが無いのは確か。
A: 私は、問題を解いた後に考えたんですよ。こんな動きをする例ってどんなんだろうと。たとえば、目的の方向に向かって進む部隊と、それを後方で支援する補給部隊ってのはどうかなと。すると、補給する間は互いに止まってないといけないし、補給部隊は、いちいち補給物資を調達に戻らないといけないし、そこで一定時間止まらないといけない。・・・といっても、これもゲーム的設定ですけど。だから、そんなに凝らないで、最初に挙げたような「規則的な動きをする二点」としておけばよかったと思いますよ。この問題の設定は、日常性でもなんでもない。
Y:「日常性」ということを履き違えているんだよね。
A:これでは、むしろ逆効果でしょう。かえって数学離れを助長することになるんでは? 「数学と日常性」というテーマはよいにしても、その「履き違え」とともに、数学は役に立つんだ、ということを具体化する際の「空回り」です。
Y:数学の試験は、こんな余計な部分をなくして、数学の問題として、難易度を保てばいい。余計なところで時間を使わせることになんの意味もない。これだけ批判されているから来年どうなるか、わからないけど、こう言うのはやめてほしい。そのまま行くなら文章を読む時間の分、テスト時間を長くするべき。
共通テスト的数学問題への対策は
A:化学の対策として書いたんですが、「共通テスト対策をしないこと」=「化学アドバンスレベルをしっかりやること」ですが、数学ではどうですか。
Y:その点は同じ。長い文章を読む力というのは、小中学から本を読み、文章を書く、ということの積み重ねだから、今からすぐにどうかなるものではない。だから、そういう人は、数学力を上げる、つまり、数学的思考の特徴としての、抽象力と形式をみる力をつけるような問題演習をすること。見たことがなさそうに見えるものでも、抽象化すれば同じところに行き着く、そういう数学的論理能力とししての思考力をしっかりと訓練すること。これは他の科目にも通じることだけど、何だか見たことある問題が解ける、というのは記憶力・知識力であって、論理的思考力ではない。そこにシフトすることだよ。
A: 化学の問題では、教科書では決してお目にかからない物質や反応式を出してきて、必要な知識は与えて、その場で読解して、でも、やはり同じように解く、基本を応用して解く、ということが普通になっています。今年は、そういう問題の比率がさらに増しています。これは<体系化学>の指導で当たり前にやっていることなので、GHS的にはWellcome!!です。
そもそも国語では、絶対に見たことのない文章が出ますよね。小説も昭和の昔の作品の切り取りだから、絶対に知らないものばかり。予想しようがない。よくそんな小説を引っ張り出してくるな、といつも思います。古文も漢文も、絶対に教科書に載っている文章、いわゆる「有名古典」は出題されない。なぜなら、その文章を収録した教科書を採用した学校が有利になってので、そういう不公平がないように、必ず誰にとっても初見の出典を選ぶのが共通一次試験以来の30数年変わらない鉄則です。だから、「朝日新聞の天声人語は入試に出るから、朝日新聞を読みましょう!!」というようなオススメとは対局です。そんなのは国語の対策じゃない。宝くじ的対策に過ぎない。国語は現代文も古典も、100%見たことない、初見の文章を読む力を持つしかないのです。もちろん、英語だってそうです。英文のネタはそれこそ無限にあるので、同じ文章に遭遇することはまず無い。だから、文法や単語を覚え、構文を習得し、読解力を鍛える、それがまともなテストです。
数学だけ、「どこかでやったことがあるからできる」問題を解くだけでOKという体だったセンター試験は、本当はおかしい、と考えるべきです。そこから、数学的な考え方、解き方を抽象して、それを初見のものに、適用して解ける、それが本物の力ですよ。
Y:よく言えば、共通テストは、数学教育の本来のあり方の方向を示唆している、と。問題をただいっぱい解いて、記憶と知識だけで勝負できた時代は過ぎ去った、ということかな。原点に返って、数学の実力とは、数学的思考力とは、数学の体系とはを把握して、それを培うための問題演習を指導する、そういうことをGHSではやってきたのだけど、この騒ぎを見ると、世間一般では、そういう面倒臭いことを考えずにやってきた、ということでしょう。
A:結論は出ましたね。
統計処理の問題は「おいしい」
最後に、「日常性」という点で、付け加えたいんですが、数学IAの第2問の[2]と数学IIB第3問の、統計処理の問題こそ「日常性」ですよ。医学研究にはこの統計処理が不可欠で、むしろ医学部で最も役立つのはこれだと言っていいです。経済・経営学においても統計学は重要で、京大等で、経済学部にわざわざ理系枠を設けるくらいですから、我々の住む社会の「日常性」を支える数学の分野として、統計学はますます重要度が増しているのです。だから、「日常性」を重要視するなら、統計処理の良問を作れば十分と思うのですが。
Y:そういうレベルの「日常性」が数学の活躍の場だね。センター試験、共通テストの統計の問題は、確実にできるし、難問はない(統計処理の手順は決まっているから)ので、選択問題(数学IIBの第3問〜第5問)では、統計の問題を選択するようにと生徒には勧めているよ。
A:私もそう思います。私の受験期には、統計処理の出題は、全く無かったです。私が今受験生だったら、「得点確保のために統計学を集中して完成させてやる」と考えたはずです。だから、もう一度強調しますが、医学部に行って、数学の勉強してよかったなと思えて、実際の勉強に役に立つのは「統計学」だけだと言っても過言ではありません。それを理解する支えが関数であり、微積であり、その他の計算です。医学部を目指すなら、将来のためにもそういう戦略を取るのも一石二鳥だと知ってほしいですね。
では、こんなところで、お開きでいいですか。
Y:今年も、色々と意見交換出来てよかったよ。どうもお疲れ様でした。