先日,同い年の友人と電車に乗っていたときのことである.
背中合わせに座っていた後ろの座席の男の子(12,3歳だろうか)が,
いきなり後ろから腕を大きく回して友人を叩いた.
何事かと,私もまた周りの乗客も驚いたのだが,
叩かれた当の本人は,後ろを見やるなり,
「どうした,大丈夫か?仲良くしようぜ.」と
気色ばむこともなく,やさしく話しかけた.
私はこの時妙に懐かしい思いがこみ上げてきたのである.
昔の大人と子供の関係がこうだったなあという懐かしさなのである.
大人が子供に対して間違いなく一段上に立って見守っていたし,
子供を見守るに,自分の子も他人の子もなかった.
それが社会であった.
その子をはさむようにして座っていた,おそらく母と姉であろう女性二人は,
やや強面の私の友人に,顔をこわばらせてひたすら謝っていたが,
その男の子は,何かに急に興奮したのか,もしかすると多少知恵遅れなのか・・・.
しかし,友人にはそんなことはどうでも良かった.
ただ,相手が子供であるということだけで,彼の対応は決まったのである.
あるのは子供に対するいたわりの情だけであった.
子供は社会がみんなで育てるものである.
親だけで育てられないことは親が充分身にしみて感じているはずである.
だから学校があるわけだが,それだけでもだめである.
おじいちゃん,おばあちゃん,親戚のおじさん,おばさん,
近所の大人たち,そして今回の例のように赤の他人をも含めて
社会全体で子供を育てなければならないはずなのである.
確かに,肝心なことを躾けていない親が増えている.
しかし,親だけを責めるわけにもいくまい.
みんなが親にもう少し手を貸してあげなければならない.
社会全体で子育てをしなければならないのである.
でないと,子供は一人前に育たないのである.
理由は,前回書いたように「人間はみんなで力を貸し合ってやっと一人前」だからである.
それを一人で充分一人前であると錯覚している親が,
自分のことだけ,自分の子供のことだけしか考えない狭い了見を持つから,
結局,狭い了見の子供が育って苦労するのである.