最近,「勉強をやらせてくれる塾」を捜し求めている親や高校生が少なからずいるようである.
その「やらせてくれる」という意味は,
決して知的刺激を与えてくれるという意味ではなくて,
宿題をたくさん出してくれて,綿密にチェックしてくれる・・・
という「システム」が整っている塾という意味らしい.
そうしてどこに行きたいと志望しているのかというと,
「東京大学」とか考えているらしいのである.
何か大きな勘違いをしているのではないだろうか.
そういう「お勉強」をして仮に東大に入った人たちが,
官僚になって国家を動かしたら私たちの生活が
どういう迷惑をこうむることになるか,
想像するだにぞっとするではないか.
実は,中にそういう東大生がいないこともないので問題なのだが,
その問題はまた別の機会に取り上げるということにして,
とまれ,本当に学力がある生徒というのは「やらされる勉強」はしていないのである.
学力とは溜め込んだ知識の量ではなくて,
求める力のたくましさにほかならないからである.
求める力,言い換えれば知的渇望が学力の前提である.
したがって,飽食の時代に学力が低下するのは,蓋しやむをえない面がある.
しかし,だからこそ,どうするか,子供にどう接するか,なのである.
与えることができるのだから,与えればよいというものではない.
時に,与えられるが与えないということも必要なのである.
そこのところを慎重に理解する大人が増えて欲しいと願う.