三島由紀夫の一文に
「宇治に入ると山々の青さがはじめて目に滴(したた)った。」
というのがある。
誰かは忘れてしまったがある作家が絶賛して取り上げていたものである。
学生時代に触れた文であるが、私もそのときこの文に体が震えた思い出がある。
前回、文字・記号で勉強する怖さ、
想像力の大事さについて書いた。
生の自然にほとんど接することなく育った受験生、
小学校時代をゲームに、塾に・・・ですごした受験生は
この文をどのように「分かる」であろうか?
文字・記号として分かるしかないはずである。
私は小学生はできれば自然豊かなところに住み、
学校から帰れば、塾など行かず
ランドセルを放り投げて家を出、
仲間と野山を駆け巡り
竹やぶに分け入り、洞窟に入り込み、
草地を転げまわり、小川で足を滑らせ・・・してほしいと思う。
それが小学生段階の一番の勉強であるからだ。
文字記号をどれだけ感性・感情レベルで「分かる」かが
「分かる」ということの大事な一面なのである。
そのためには、生の体験をできるだけ豊かに持っている必要がある。
草いきれ、土の感触と匂い・・・
そうした生の体験が豊かにあってこそ
想像力も豊かに働かすことができる。
それは自然に限らず、人間関係についてもしかりである。
抽象概念は、豊かな具体の体験が土台としてあってこそ
本当に「分かる」ものである。
具体の体験をとばして
抽象をもてあそぶことを急がせることが
逆に子供たちの学力を低下させている。
文字・記号の勉強が本当の勉強だと
誤解している親が多いように思う。
最近、数学の図形問題を苦手とする生徒が多いそうだ。
立体になると特にダメだという。
これも子供時代に自然という本当の立体で
とことん遊んできていれば
もっと理解が楽なはずなのである。
ルソーとは意味が異なるが
「自然に帰ろう」
子供たちに、いや親たちに声を大にして言いたい思いである。