受験勉強を進めていくには

敏感さと鈍感さの両方が必要である。

敏感であっても、敏感すぎず、

鈍感であっても、鈍感すぎず、

そのバランスが大事であるし、

敏感であるべき対象と、

鈍感であるべき対象の区別が大事である。

そういう点で現代はこのバランスと選別が

微妙に狂っている時代であろう。

これは感情に類する事項であるから、

繊細な日本語に生きる我々は

ともするとこの「狂い」をもろに受けがちである。

何しろ、英語であれば

弟であろうと、親であろうと、先生であろうと

「you」で済むが

日本語の世界では

「君!」と呼んでから年長者であったことに気づいたら

「大変失礼しました!」と平謝りしなければならないのであるから。

まちがったら謝ればよいのだが、

最初から気を遣ってびくびくするなどということも出てくる。

これはもちろんたとえばということであるが、

これに類する過敏が現代は多いのである。

論理に敏感で、気遣いに鈍感であるほうが得なのだが、

なかなかそうもいかないようなのだ。

それが現代である。

気遣いに鈍感すぎてもそれはそれで困る。

だから、小さいころから集団の中でもまれてくる必要があるのだが

現代はゲームであり、小学生からの受験勉強である。

もちろんそれぞれの事情があるが

何かもっとおおらかに

そして必要な知性と知的感性において敏感さを発揮できるような

そういう時代、精神風土を作る努力を大人たちがしていかないと

子供たちがかわいそうだなあ、

と考えているところである。