少子化と幼稚化
少子化は経済的な豊かさとともにやってくる。経済的に貧しい国や時代は出生率が高く、かつ乳幼児死亡率も高い。乳幼児死亡率が高いからたくさん産むという面もある。しかし経済が成長を遂げていくにしたがって、医療や公衆衛生が改善し、乳幼児死亡率が低下するとともに、出生率も下がっていく。価値観の変化も絡み合ってのことではあるが、生活水準の向上は、養育費・教育費の上昇をも意味するので、「子だくさん」は難しくなっていく。子ども二人が平均的になっていき、一人っ子も多くなる。いきおい子どもが少なければひとりひとりが大事に育てられることになる。それは良いことに違いない。しかし、物事は二面性をもつから問題が出てくるのである。問題とは大事に育てるということの中身である。大事に育てるその育て方が、いわゆる「過保護」になるとその努力が裏目に出る。これは身近によく見かけることであるし、メディアでも取り上げられることであるから、誰でもすぐ理解できるであろう。だから、普通の親は過保護は良くないと認識し、「うちは過保護にしていない」と胸を張るにもかかわらず、残念ながら過保護と同じ結果を生んでいる事実がたくさんある。それはなぜか、ここが最大の問題であろう。
なぜ人間は教育をするのか
少し、根本から考えてみよう。なぜ、人間は子供に教育を施そうとするのか。それは人間だけが持っている特権ゆえである。人間の赤ちゃんは何もできない存在として生まれてくる。自分で立つことも食をとることもできない。他の動物はそれができる存在として生まれてくる。この意味をしっかり見つめる必要がある。他の動物はその能力をはじめから持って生まれてくる。そのかわりできる範囲を最初から定められて生まれてくる。馬は馬以外になれない。他方、人間は何もできない存在として生まれてくるが、そのあと何にもなれる。「狼に育てられた子」のアマラとカマラは狼のように遠吠えをし、狼のように走り、狼のように生肉を好んで食べたのである。人間は育てられ方によっては狼にもなれる。(むろん比喩表現であることをここで断る必要もあるまい。)これが人間の一大特徴である。教育によって創られてしまう、創ることができる。育てられ方によっては大悪人にもなれるし、天才にもなれる。20歳までがその決定期である。そのことを大人は誰でも知っているがゆえに、子供によい教育を与えようとする。経済的に豊かになればなるほど、経済的余裕に加えて、いかなる教育を施すかを考える余裕が出てくる分、教育につぎ込む親のエネルギーたるやとどまるところを知らないという状態になる。
アタマとココロ
人間がこのような天恵とも言うべき何にも代えがたい属性をもっていることが人生を豊かなものにしてくれるのであるが、ここに重要な但し書きがつく。それはこの才能を上手に活かせればという条件である。お隣韓国で悲しい事件報道があった。周知の通り韓国は大変な受験戦争の国である。テストに遅刻しそうな受験生をパトカーが送り届けてくれるほど、大学入試は国家の一大行事である。その韓国で高校生のわが子に全国一番を強要した母親が追い込まれたその子供によって殺害されるという悲劇があった。その子供は法の裁きを受けることになろうが、この報道を読んだ人の多くは追い詰められた子供に同情したはずである。暴力まで用いてわが子に全国一番を求めた母親は何を間違ったのであろうか。人間には知と情があること、アタマとココロがあることを理解していなかったのである。ココロを無視してアタマだけトップになることを要求した。私は仕事がらたくさんの保護者を見てきたが、教育熱心でありながら教育に失敗している例の多くは子供のココロを見ていないかあるいは見誤っているかのどちらかである。学力は割り切って言えばアタマであるが、アタマの発達はココロを抜きにしてはありえない。ココロと重なり合って初めてアタマは向上するのである。幼稚なココロには幼稚なアタマ(学力)しか育たない。幼稚なココロでも可能なのは、あるいはむしろ幼稚なココロの方が得意なのは「パズル解き」である。しかし、大学入試はパズル解きではない、そうであってはならない。ただ、残念ながら大学のレベルが低いほど、入試問題がパズルレベルになりがちである。かつての私立医科大学は一部でそういう傾向があった。しかし、医学部の受験が難化した今は改善されてきている。
豊かさと貧しさ
話を戻そう。日本がまだ貧しかった時代、親たちは子供たち(すべての人間)に与えられた天恵に目を向けようにもその余裕はなかった。にもかかわらず、実力ある子どもたちが結構育った歴史的(?)事実がある。それはなぜだろうか。いわば逆説的に、貧しさが野心、大志、あこがれといった人間としての健全なココロを育てたのである。しかし、豊かになるとは、貧しさからの脱却ばかりでなく、残念ながらかつて持っていた健全なココロをも失うことを意味する。であれば、豊かさが生み出す余裕がその失うものを補えばよいはずなのである。ところが、悲しいかな人間はなかなかそう簡単にはいかない。豊かになったローマ人はそれを補えたであろうか。平家はその栄華を保ち続けられたであろうか。否である。人間はそれを繰り返してきた。一部の人間が「人間は歴史に学んできていない」と主張する所以でもある。
ローマだ、平家だというのは大げさだとしても、しかし、豊かさを真に活かせるか否かをわれわれの世代が試みる段階にいるように思えるのである。今を豊かだと言えるのかという価値観論争は脇に置こう。戦前あるいは昭和30年代より物質的に豊かになったことは事実である。国民大衆が豊かになった。そのとき国民大衆はその物質的豊かさを精神的豊かさに変えられるかという試練に立たされているのが今の時代である。子供たちは豊かさと便利さの中で育つ。そういう時代に生まれてきたのだから子供に責任はない。子供を育てる側の責任である。こういう物質的豊かさ、便利さの中で子供が夢をいだき、大志を育み、知的渇望を保ち、貧しい時代に劣らない主体性を確立していくことができるように教育環境を整えることが大人の責任である。
大人の精神レベルが問題
私は豊かさとともに衰えていくものの中で最も重要なのが主体性だと思っている。むろん主体性の中身が問われなければならないが、そもそも主体性自体が失われたら何事も始まらない。ハングリーであれば必然的に出てくる主体性が豊かさとともに失われていく自然な法則性にいかに逆向きに掉さすことができるか、それが先進国のテーマだと思う。そしてそれはとりわけ子供の教育において重要テーマであろう。ところで子供の教育は誰がするのか。大人である。つまり教育の問題は大人の問題、大人社会のレベルの問題にほかならない。大人の精神のレベルの高低が問われなければならない。教育熱心な親がいる。結構なことである。しかし、大学受験に臨むもうじゅうぶん大人であるはずの息子の成績を事細かにチェックし、センター試験の結果を踏まえて受験可能大学の詳細なデータリストをつくりあげる母親がいる。それが表面的な効果とは裏腹に息子の主体性をどれほどむしばんでいるかを理解できていない。息子をふたり東大理Ⅲに合格させたと鼻高々にはしゃぎまわる母親もいるという。大人の精神の貧困が問題である。大人の精神の貧困が次の世代への悪循環を創りだしていくのが衰退へのパターンである。
大人の精神が貧困であると、何が大事なのかという問題を脇に置いて、表面的な成果だけを求めようとする。教育界における典型例が中高一貫私立校の受験体制である。中学で高校の内容に入り、高2の段階で高校の内容をすべて終えてしまう。高校3年の一年間は徹底した問題演習である。普通の公立高校は高3の末にやっと終わるか、ややもすると全部終わらずにやり残す分野が出てくることも少なくない。中高一貫校が東大に大量に合格者を送り込む所以である。さらに今度は学習塾がそのシステムを採用する。前倒し学習で中学で高1の内容を高2で数Ⅲを終わらせて東大理Ⅲに現役で合格するプログラムを売りにするのである。“成果”を求める親たちはこぞってわが子をその学習塾に預ける。この現実が日本の大人社会の悲しい精神の貧困である。十代は身体を創る大事な時期でもあり、豊かな社会関係により健全な感性と情緒とを育む時期でもある。その人間の本質を本能的に知っている普通の高校生は学習とクラブ活動との両立に大いに悩むものである。高校の履修内容がもう少し少ないものであるならば、クラブとの両立も可能であろう。しかるに高校の学習内容はクラブと両立不可能であるほどに膨大である。その膨大な学習内容を高2までにすべて終えてしまうとすれば、受験勉強にすべての時間を注ぎ込むしかない。はたしてそれが健全な十代の過ごし方であろうか。一体いつ世界の文学、日本の文学を読み、人類の精神の苦悩に寄り添うのであろうか。一体いつ偉人の人生に触れ、壮大な人類の歴史を俯瞰して、高潔な志を育てるのであろうか。大人の精神が健全であれば、こういう教育システム・カリキュラムを創らないであろう。こうした場に子供を投げ込まないであろう。
日本社会の精神の復興を
GHSの目標の一つに受験の幼稚化の払拭がある。それは日本社会全体の幼稚化の払拭であり、大人社会の精神の貧困の払拭である。何が人間にとって本質的であるのか、何が表面的な成果でしかないのかをしっかり識別して、前者を犠牲にして後者から得られる利益の誘惑に抗して踏みとどまる大人の精神の健全さと矜持が必要なのである。そういう意味で、かつて高いレベルを保ち、受験界において当時のZ会とともに添削教育の双璧として君臨した「通信添削オリオン」の復権はひとつのルネサンスである。GHSが育文社から引き継いで『思考訓練シリーズ』の販売・普及をはじめた理由もそこにある。(『思考訓練シリーズ』についてはこのホームページでコーナーを設けているので参照願いたい。)当時10日ごとに発送された添削問題の解答解説小冊子である旬報に、「南船北馬」と銘打った会員からの便りを紹介するコーナーがあり、受験生のエッセイが掲載されていた。昭和53年に掲載された一人の浪人生の文章をあえて紹介したい。当時の予備校教師たちの精神レベルの高さが偲ばれるからである。
「君たちは一年、この予備校で大学に入るために学んできた。しかし、私は、一度だって君たちを大学に入れる為に勉強を教えてきたことはない。私は古典を通して、君たちに生きることの苦しさや素晴らしさ、考えることの尊さ、そして、なによりも人間としての態度を君たちに知ってもらおうと思って授業をすすめてきた。どうか、この一年の真面目な学習態度を忘れないでもらいたい。君たちの勉強は、受かった時に終わるのではなくて、受かった時に始まると思ってもらいたい。最後まで、私の授業に出席してくれて、ありがとう。…予備校での古文の先生の最後の言葉です。私はこの先生に会えただけでも浪人して良かったと思っています。」
教師たちが、親たちが皆こうした精神を獲得すべきであるとはあえて叫ぶまい。ただ、せめてこうした精神のレベルを是とし、評価し、志向する日本の大人社会であってほしいと願うのには切なるものがある。なぜならば、日本社会はいまそれほどに危機だと思うからである。
羅針盤の記事一覧はこちら。