今さかんに報道されている「履修不足」の問題は,

日本の大人社会がいかに本質を見る目がないか,

そのために,どんなに子供が犠牲になっているかを

改めて示している.

こうした問題が起こった原因の指摘が

「識者」によって盛んになされる一方,

その対処の仕方は相変わらずその場しのぎの「形」だけである.

不足分を補習で補うというのだが,その目的は何なのであろうか.

授業は生徒に実力をつけることにその本質がある.

学力をつけることが目的であって,

授業はその手段でしかない.

ところが,授業数をこなすことが目的になって,

事の本質が擦り替わってしまっている.

こうした間に合わせの補講を一体誰がまじめに聴くであろうか?

内職や居眠りの授業になるのが大半であろう.

教師も生徒も互いに分かっているから,

そのうち「補講をやったことにしよう」という

「二次災害」の摘発が起こる喜劇的悪循環も予想できるのではないか.

文部省や教育委員会の役人たちのレベルの低さが改善されない限り,

同じような問題は今後も後を絶たないであろう.

取り立てて学歴のない人に

こうした問題の本質が見えている人が実は多い.

そういう現実を見るたび,

学歴のある役人たちが何かを学びそこなってきたのではないか,

と考えないわけにはいかないのである.