地域差はあるであろうが、
人と人の心の交流がどんどん薄くなってきているように思える。
昭和30年、40年代へのノスタルジーものが人気を集めているのも、
モノとしては今よりずっと不便であったが
心が通っていたということに
郷愁を覚えるからではないだろうか。
友達同士、親戚、近所、そして商店街といったいわゆる地域社会等々
そうした人と人との付き合いが豊かであった時代の健康さを
今改めて認識しなおしているのであろう。
私は、仕事柄多くの若者の悩みに付き合ってきている。
中に、自分は何をしたいのか分からない、とか
医者にはなりたいが、努力できない自分がいるとか
昭和30年、40年代なら
ちゃぶ台をひっくり返したくなるような悩み(?)に
誠実に応えなければならない時代となっている。
ただ、彼らの悩みを聞いていて共通の特徴として感じられるのが、
「人のために」「相手のために」という
喜び、熱い感情がないという点である。
薄い人間関係の中で育ってきた彼らは
自分を犠牲にして友達のために一肌脱ぐ
という感情が育っていない。
だから、悩んでいる視線の先には自分しか見ていないのである。
「自分はどうしたら良いのか」
「自分はできる人間なのか、できない人間なのか」・・・
困っている相手がいるから、自分を顧みる余裕などなく
とにかく遮二無二頑張るという発想は出てきようがないのである。
悩みの中心は困っている自分であり、
決して困っている相手ではない。
結果としてますます悩みの中に埋没していって
心の不健康から抜け出せなくなっていくのである。
「世のため人のため」
「情けは人のためならず」
昭和30年、40年代にはまだ生きていた言葉であった。
これらの言葉がどれほど重要な人間の真実を語っているか
人間が健康・健全に生きるためにどれほど含蓄ある言葉であるか
個人主義の今だからこそ、まさに自分のためにも
もう一度味わいなおす必要があるのではなかろうか。