先週、加藤周一逝去のニュースが報じられた。

以前、東大仏文科の話をこのブログに書いたことがある。

加藤周一自身は東大医学部出身であるが、

仏文科に出入りしていて

そのときの先生筋に当たるのが渡辺一夫であった。

当時のことを加藤が書いているのだが、

自分たちが何日もかかって読むフランス語の本を

先生は研究で疲れた一日の最後に

軽く数時間で読んで眠りにつく。

ヨーロッパ語の一つや二つ気軽に読めなくては

仏文科の学生たちと話が合わない。

森有正にいたっては中世ラテンを当たり前のように読んでいた

と書いている。

それが彼らのレベルなのである。

かたや、今有名国立大学工学部が、

数?をやってない、物理をやっていない学生を入学させて

どう教育していこうか困っているという話がある。

天下の京都大学でさえ、数学の入試問題を以前の通り難しくすると

白紙の答案が大半を占め、学力の差を判定できない。

やむなく簡単な問題しか出せないでいるそうである。

大学が大学でなくなってきた。

みんなが大学を目指さなくてよい社会を

作ってもよいのではないか。

悪しき平等主義がはびこれば

「みんな平等になって国家滅ぶ」になりかねない。

現在、日本の政治家に“人物”がいず、

国民がみんな苦しい生活と暗澹たる思いとを強いられている現実が

戦後の教育のあり方からきていることを

是非に問題視してもらいたいものである。

ひとつの大きな知性の逝去に

国の行く末を深く考えさせられたことである。