西武新宿線の高田馬場駅で電車に乗った。
次の新宿駅が終点であるが、
ここで大部分の人が降りて、
入れ替わりに乗り込んだ私は
2,3人しかいないガラガラの車両に悠々とすわることができた。
ふと見ると、ガラガラの車両の7人がけの座席の端に
ぴたりとくっついて座っている二人がいる。
中年の男性と20歳前後の若者で
互いに言葉を交わすでもないが、
親子かなあ、と私は思ってみていた。
他人同士がガラガラの車両にぴたりとくっつきあって座っているのは
気持ちが悪かろう。
終点の新宿駅に着いた。
すると、ふたりは言葉を交わすこともなく
それぞれに立ち上がり車外に消えていった。
赤の他人だったのである。
もちろんくっついて座って悪いという話ではない。
満席に座っていた人たちがみんな降りて
たまたまその二人が残ったということでしかない。
しかし、
どうしてかなあ、と興味深くはある。
二人はガラガラの車両の中で
自分たち二人がくっついて座っているという車両全体の構図が見えていなかったのであろう。
彼らはそれぞれに自分の世界に入り込んでいて
周りが見えていないのである。
私にはその有り様がいかにも現代社会の象徴に思えた。
今、満員電車でのマナーの悪さが指摘されているようである。
奥に詰めようとしない、
出入り口をふさいでどこうとしない、等々。
状況が見えていながら自分のエゴを優先している場合は
言語道断であるが、
ただ周りの状況が見えていないというケースも多いように思う。
自分の世界に入り込んでいるのである。
周りを見なければならないときに周りを見ないということが本当は問題であろう。
それは人間同士のつながりの意識が薄いということが根本にある。
現代社会は個人がますます自分の世界に入り込んで
周りを感知せずという状況が増えている。
結局はそうした風潮が
いじめの問題等々のやりきれない問題を生み出しているのである。
周りが見えないという問題は
本当は大問題であるにもかかわらず
直接何か事件として表われる性格のものではないために
なかなか表立って取り上げられることがない。
しかし、さまざまな現代社会の問題を生み出している
根本的な問題であるはずである。
いじめの問題は
現代の精神的土壌という本質的な問題が生み出した
現象である。
現象を現象のレベルで問題にしても
根本的な解決にはならない。
問題の本質はこういう精神的風潮であり、
今のうちにこの問題の重大性に大人社会が気付き、
それ自体を議論の的にしてほしいものである。
そういうことが国会の議題になってよいはずなのである。