私事になるが
私の母が7月18日夜逝去した。享年86歳であった。
同年代の友人の多くはすでに他界されている方々が多く、
葬儀は身内だけの7,8人で行う予定であった。
ところが母の甥、姪たちや
父の妹たち(母の義妹)が
口止めを越えて聞きつけ
「昔語りつくせぬほど世話になったんだから、
何を置いても、這ってでも行かなければならないんだ」
と、遠くから集まってきた。
また近所の方々との付き合いも深く、
さらにはフォークダンスをやっていた時の
一世代若い仲間たちが集まって
私たちが葬儀の準備で忙しいだろうと分担して
おにぎり、漬物、温麺汁等々を作り届けてくれる。
結局通夜、告別式とも70名ほどの人々が参列してくれたのである。
これほど慕われて生きた母は偉かったなあと
改めて尊敬したことであった。
弔辞を読んでくださる人あり、
花束をささげて言葉を添えてくれる人あり、
弔電あり、孫や曾孫の言葉ありで
いつの間にか立派な葬儀になった。
喪主は父であるが、88歳の高齢であるため
挨拶等は私がすべてやったのだが、
初めは身内だけのつもりでいたから気楽でいると
どうも70名からの葬儀になりそうだということで
あわてて挨拶の文章もそれなりに練って緊張を持って臨んだのだが、
不思議なものである。
まったく緊張もせず、むしろ母の病状の経緯を話したために
告別式での挨拶が長すぎて身内から非難轟轟であった。
今回の経験で思ったのはこれが社会ということなのだな、
共同体ということなのだな、ということであった。
人間が気持ちで一つになれるということ、
みんなが同じ気持ちの世界に
何のためらいなく入れるということ
そのとき余計な力みや虚飾が消えて自然になれる。
これが社会なのであり、
「人間は社会的実在である」とはこういうことなのであろう。
私はこのブログでも
再三再四、一人になるべからず、と訴えてきている。
今回の母の死去にまつわって
改めて人間が社会の中で生きているということ
生きなければならないということを
実感を持って確認できた気がしている。
今社会的な疎外感から心を病んでいる若者がたくさんいる。
解決策は病院に行くことではなく
社会に入ることであり、社会の中で生きていくことである。
それは自分が入れる社会を見つけること
あるいは小さくてよいから自分が身を置ける社会を自分で作ることである。
母の死を前にして、つらく、苦しい数か月であったが
最後まで大事なことを教え、そして残して
母は去って行ってくれたと思っている。