今,いわゆる「文学作品」に日常触れる機会がある大人が

どれくらいいるであろうか.

普通のビジネスマンは

目の前に山と詰まれた仕事をこなすに手一杯で

活字は新聞を読むのがせいぜいというのが平均ではなかろうか.

正直,私なども今文学に親しむ時間はなく,

また,普段その方面への意識そのものがない.

今回,たまたま私が一目置くある友人が

『新解釈−羅生門』(文芸社)なる本を出版し,

私にとってはノスタルジーを意味する文学の世界に

久々に足を踏み入れる機会を得た.

私はこの本で展開されている

芥川龍之介の『羅生門』に対する

著者神川仁君の解釈を具体的に云々する立場にないし,

それができる見識もない.

私なりにこの書の紹介を次々回あたりに書きたいと思うが,

(書店に並ぶのが6月1日だそうなので)

ただ,この書を読みながらふと思ったのは文学の効用とでも言おうか.

(「効用」などというと文学関係者にはお叱りを受けそうだが…)

人はパンのみに生きるにあらずという.

これは誰しも知っていることであろう.

しかし,自由競争という名の強制的競争を強いられる現代人は

今日のコメ,将来の年金あるいは資産の運用というように

専らモノに目がいかざるを得ない.

しかし,心の奥底には,若き日に

正義や友情といった文学で扱う世界と格闘した痕跡が

しっかりと残っているもので,

いざというとき,それが顔を出す救いがある.

だが,もしかするとこうした文学で扱う問題で

葛藤し,苦悩し,呻吟した過去を持たない人もありうるのだ

とふと思い至ったことである.

無論,文学に接しなかったとしても,

実体験としての人間関係を

しっかり踏んで育ってきた人はまだよいであろうが,

人間関係が薄くなっている現代にあっては

両方欠落している人たちが増えている可能性が大であろう.

いじめの陰湿化,給食費を払わない親たち,紙幣を焼く公務員,全般的なマナーの低下…

短絡させるつもりはないが,

無関係でもありえないような気がしてならない.

以下次回・・・.