秋葉原の悲惨な事件に

もうひとつ別の角度から戦々恐々としている

向きがあるようである。

先日の毎日新聞で

この事件の犯人と同じ問題を抱えている若者たちが少なからずいて

その共通している側面についてどこかの大学の先生が述べていた。

親が、子供に過度な英才教育を強制したとき

それが報われればまだしも、

挫折した時大きな反動が来るという趣旨であった。

親が子供の教育に熱心になること自体はしかたのないことであろう。

しかし、それをどういう流儀で行うかに

その親の器量が現われる。

ただ自分の皮相な願望を強引に子供に押し付ける親、

自分の願いを持ちつつも子供の気持ちを尊重しながら接していく親

子供の環境創りだけに徹し、あとは本人の自主性を重んじる親

等など

いろいろな接し方があるものである。

どういう接し方が、子供の精神を健全にし、

どういう接し方が、子供を逃げ場の無い狂気へと追いやるのか、

少し考えてみれば分かるはずなのであるが、

残念ながら、現実は

人間性の本質を見失った愚かな大人が子供を犠牲にしている例が

程度の差はあれ

決して他人事ではないレベルで

身近に累々とあるのではないだろうか。

25年前、私はある優秀な進学校で教師をしていたのであるが

組担任をしながら生徒の親とは密に接する機会が多かった。

今振り返ってみると、その時の親達はみんな常識があって

本質をわきまえていた。

何が子供の教育にとって優先されるべきであるかについて

軽薄である親は一人もいなかった印象が強い。

つくづく優秀な親達だったと今改めて思う。

成績や大学進学を大事に考えていることは今と同じである。

有名進学校に子供を通わせているのあるであるから。

しかし、それを人生の最優先と考える愚かさは持っていなかった。

何か人間としてもっと大切なことを犠牲にしてまで

学業成績にこだわる狭量さは一切持っていなかった。

今それが貴重なことだったと思えてくる

この現在の日本の現実が悲しく、心配である。