先日、入会希望のある生徒から英語の勉強の仕方について
アドバイスを求められた。
英語は今他の塾に行っているそうで
これからも英語はそこでやって行こうと思っているのだが、
量が多すぎてどうやってよいか分からないという。
他塾のことを私に相談するのはお門違いなのだが、
持ってきたその塾の教材を見せてもらった。
さすがに英語で有名な(そうである)塾だけあって
たいへんな力作である。
ただ本人の言うとおり量が多すぎる。
たとえばあるパターンの表現については
ひとつ残らず全部網羅してある。
これだけ知っていれば怖いものなし、
受験で知らないものは出て来ないから安心!
という発想で作ってある。
しかもなかなかよく整理されている。
逆に言うと、整理されていてこれだけの量があるのだから
いかに膨大な量か!ということでもある。
東大に入るような生徒たちはこれをものにするそうなのだが
相談に来ている目の前の生徒には酷に思える。
それより憂鬱になったのは
東大に入るような優秀な生徒が
こういう受験勉強を嬉々としてやっていることに対してである。
これだけの網羅的知識を
しかも決して概念の深さや味わいとは関係のない
文法的・句形的レベルである知識を
これだけ大量に憶えこむことに膨大な時間を使う意味があるのか
学ぶ方も、教える方もこうした方向へ
嬉々として、情熱的に突き進んでいく「受験勉強」が
受験勉強を評判の悪いものにしていくのであろう。
円周率をできるだけ多くの桁数まで憶えていることを
競うのと同じ発想の受験勉強は
円周率を3でよいとする愚かさと
表裏一体である。