もう十年以上前になるだろうか?

南方熊楠がブームになったことがあった。

私は自分が浪人生であった30年以上前に

ある本で熊楠を知って、随分関連本を読んだものである。

十数ヶ国語を操る博物学者・民俗学者で

たいへんな博覧強記振りであったようである。

外国に行って一週間もすれば

その国の日常的言葉は大体不自由しなかったという。

子供の頃、本屋で立ち読みし、諳んじて帰って家で写す。

そうやって百巻を越える全漢文の百科事典を

すべて写し終えてしまうのである。

まあ、天才と片付けてしまえばそれまでなのだが、

南方熊楠は子供の頃言葉が遅くて

回りの大人たちが心配したという。

前回の話ではないが、

遅かった分、渇望が激しく爆発したのかもしれぬ

と考えるのは、

あまりに私の一人うがちに過ぎるであろうか?

そこまでの極論はおいておくとしても

ただ、早ければよいというものではないということは

この熊楠の例からも言ってよいように思う。

ともすると先へ先へとせかせられる時代だけに

ゆっくりといくことの大事さを

問い直して見るべきではないか。

「ゆっくり」とは「熟成」ということでもある。

次回、「熟成」ということについて述べてみたいと思う。