千年に一度という地震と津波の大災害で

国が大きな困難に直面しているこの時期に

不信任案を出す出さない、

ポスト菅は誰それがいい、

大連立をするしないと

政局の混乱振りに国民はあきれ返っている。

結局問題の本質はどこにあるのだろうか?

要は政治家に“私”しかないことが最大の問題であろう。

“公”がないのである。

口だけは公を語りつつ、本心は私のみである。

この国難をどう解決するかよりも

誰が手柄を立てるかがテーマなのである。

自分が手柄を立てたい!なのである。

相かわらず「××を菅総理の花道に・・・」

などという発言が聞こえてくるのには

この国の政治家は本当にどうしようもないなあと

嘆息するしかない。

個人の名誉であるとか、体裁であるとか

それらは後からついてくるものであり

目的であってはならない。

関東大震災の復興に尽力した後藤新平が

今脚光を浴びているのは

具体的な復興策にではなく

その人間としての無私、公の精神に

感嘆するからであろう。

それと好対照に

現在の政治家が私的魂胆を持った小人の烏合の衆に見えるからこそ

国民は呆れているのである。

しかし、問題はなぜそうなってしまったか、である。

それを問い直さないことには

この国の本当の復興はないように思う。

「国民は国民のレベルにあった政治家しか持てない」

との格言にある一理を

我々は噛みしめなければなるまい。