しばらくブログをご無沙汰してしまった。
太陽がまぶしく、明るい良い季節である。
時に気温が27,8度にもなるが、暑いのが好きな私にとっては苦ではない。
それにしても、日本の四季の明瞭な変化というのはかけがえのないものに思われる。
冬の寒さ、春の桜と、初夏、梅雨を挟んで盛夏。秋風に秋霖のさびとわび。冬至に向かって、また厳寒に身を引き締める。
これが日本人の感性を繊細かつ豊かにしないわけにはいかなかった。
ある留学の地で、窓の外に月を見つけたという。
「あ、月だ!」一人が叫ぶと、日本人の留学生がみな窓から身を乗り出して月を眺める。
現地の学生たちは、それを不思議がったという。
ただの月ではないか、珍しいわけでもないのに・・・と。
そんなエピソードがどこかに載っていたことである。
日本人は英語が不得手だから、
このグローバリゼーションの時代に付いていくために何とかしなければと
文科省が英語の教育改革に躍起である。
しかし、言葉というのは感性と一体であるから、
英語を自在に操るためには
感性を英語にしなければならない。
しかし、それは無理であろう。
日本の感性と英語の感性は相いれない。
日本人に無理に英語の感性を身に着けさせようとすると
日本の感性を破壊していかなければならない。
もちろん両立もできるのだろうが、ごく一部の人に限られよう。
日本人は、英語を読めるが話せないというのは
ある意味いたし方のないことなのである。
必要なごく一部の人に英会話を堪能になっていただくとして
何も日本人全体に英会話と英語的感性を義務化する必要はないのではないか。
むしろ、和食だけでなく
日本的感性を外国の方に身に着けていただく努力をしてほしいものである。
もちろん、それはそれで同様に無理であろうが。
文化的多様性は現代世界の潮流である。
文科省の英語教育改革は世界の潮流に逆行しているというべきであろう。