今年は私の授業の種類と量が増え、長野校の開校もあって、
塾長としての仕事が後回しになっている。
ブログの前回の更新が5月20日であったから、
だいぶ日が空いてしまった。

オリンピック・パラリンピックは人間の成長がテーマであるから、
どうしてもチェックせざるを得ない。
「毎日新聞」に興味を引く記事があった。
シンクロナイズドスイミングのコーチの話である。
とにかく練習の厳しさは極限である。
しばらく代表を離れていたこのコーチの再招聘を、水泳連盟が拒絶する。
「スパルタ指導は現代に合わない。パワハラが問題になっては困る」と。
いかにも役所的な、頑迷さと事なかれ主義である。
しかし、4年後の自国開催決定で、メダル獲得の至上命令が上から下ると
手のひらを返したように招聘という、いつもの光景である。

さて、復帰直後のコーチと選手とのやり取りが面白い。
コーチが更衣室の着替え散乱を指摘すると
選手からは「片付いています」との返事。
「片付いている」の基準が違う。
われわれ教育の場にいる者が常々感じていることがどこにもあるのだ。
しかし、そこで叱りつけるのではなく、
選手が練習している間、コーチが隅から隅までキチンと片付けてみせる。
コーチの偉いところである。
単なる上から下への鬼コーチとはわけが違う。
しかし、いずれにしても
選手たちがそのレベルから、今回のメダルまで成長するその道のりは察するにあまりある。
一日12時間ときには16時間練習するその地獄は
やった人間にしか語る資格はないであろう。
それをやらせた、やり続ける意志を持たせたコーチの指導力の賜物でもあるが、
この時代に選手たちがそれだけの頑張りができるのはなぜか。
そこまでの頑張りをしなければならないのはなぜか。
ひとえに、何を目標にしているかしだいであろう。
4年に一度、あるいは一生に一度しかやってこない
世界一になるチャンスを掴むことへのあこがれであろう。
翻ってわれわれ受験生はどうか。
その頑張りのみなもとは、同じく来春の栄光、そしてその後の人生の展望へのあこがれである。
そしてその頑張りの厳しさは、
現在の自分の実力とのギャップいかんである。
そのギャップを前に、まだ自分は甘くはないか。
一生に一度、4年に一度しかチャンスがない、
しかも世界一を目指すアスリートに比べれば
受験生はまだまだやれるのではないか。
その厳しさにしっかり自分を重ねられたものは
間違いなく来春、喜びの涙と笑顔を手にするであろう。
オリンピック・パラリンピックは
人間の努力と成長というものについて
もう一度立ち止まってゆっくり考える機会を与えてくれることに
一つの大きな意味があると思っている。