何とも痛ましい事件が続いたことである。
川崎の事件と、練馬の事件である。
前者は被害にあった生徒が通う学校の理事長が
横浜の私立学校で私が教員をやっていた時の同僚であるだけに、余計に身につまされる。
しかし、事はこの日本社会全体の問題である。
今80代のの高齢者が50代の引きこもりの子供を抱えて悩んでいる
「8050問題」があるという。
これは個々の家庭の教育の問題として扱うべきものではなく
日本社会の病理、日本の教育の問題として
日本の大人全体が真剣に考えるべき問題であろう。
何か知識や勉強の問題ではなく
心の成長の問題であり、
人間関係・社会関係の教育の問題である。
つまり、人間はすべてにおいて教育され、育てられなければならない存在であり、
頭つまり学習だけでなく
心も人間関係や社会関係も育てなければまともに育たない生き物が人間なのだという根本の問題なのである。
現代の日本の大人が
知育や習い事については子供に熱心なのに対して
こころの教育に関しては安易に考えている。
それは実は大人自体が人間関係・社会関係をうまく創れず
おどおどした日本社会を創っているということの反映でもあるのではないか。
「優しさ」を履き違えて「厳しさ」を否定し、
「上品」を履き違えて「粗野」を否定する。
子供にとって喧嘩は必要なのに
それをさせずにかえって「いじめ」を作り出していることが分からない。
喧嘩をしながら人の痛みを知り、仲間づくりを覚え、処世術を学んでいくことが
大事な教育問題だとは考えない。
高さのみを競い合う組体操をやらせる愚かな指導者がいるかと思えば
転じて「組体操は一切ダメ!」と極端な対応をする愚かな教育行政がまかり通る。
挙句の果てには手をつないで一緒にゴールさせる運動会となる。
そうしたことが結局こころを未熟にし、
人との付き合いが分からない日本人を拡大再生産していくのである。
子供のころ、元気で明るい叔母が私に
「一発殴られたら、二発が殴り返さなければダメなんだから!」と当たり前のように語ってくれたのを
微笑ましく思い出す。
私の敬愛する吉川先生は父親に
「いじめられたら自分が悪いと思え!」と育てられたという。
そうやって育った人間はたくましいし、人間関係が巧みであり
よい意味での「人たらし」の魅力さえ放つ。
たくましさがなければ生きていくことはできない。
そして人間である以上
「たくましさ」も持って生まれてくるものではなく
教育されて育っていくものであることを
大人はもう一度見つめ直すべきであろう。
「粗にして野だが卑ではない」
私の好きな言葉であるが、そういうこころづくりを社会を挙げて
考えてよいのではないか。