いよいよ夏も本格化する。
異常気象が恒例になる異常さだが、
災害が最小限に抑えられることを願いたい。
夏は受験生にとっても大事な季節であるが、
またスポーツ選手にとっても“熱い”夏である。
今超高校級の投手を地方予選決勝で登板させず、
結果として甲子園への道が断たれることになったことについて
その監督の判断に賛否両論がかまびすしい。
直接の是非は別として
生徒本人の長い野球人生を見据えてものを考え結論を出したこの監督の視点に
私は賛意を表したい。
反対の立場の意見の多くは
高校球児にとって甲子園は夢であり
そのために苦しい練習に汗を流してきたのに
それを奪ってしまってよいのかというものである。
人生80年(もしかすると90年)の時代に
18歳で迎えるイベントにおいて
果たして
その後の人生に支障が出る可能性があっても勝ちにこだわるべきなのか、
慎重に考える必要があるだろう。
18歳でのイベントは
それがどんなに華々しいものであっても
人生の通過点でしかないという広い視野を
大人こそが子供に示してやるべきはずである。
若き日の成功は過去の栄光にすぎず、
下手をすると
その過去の栄光の思い出に浸って
その後を生きる虚しさになりかねない。
人生の通過点での目標は、
その後の人生を歩むうえで有意義な実力をつけるためのものでなければならない。
そうしないと、ただ勝つことだけにこだわる教育を施すことにもなりかねない。
目先の成果にこだわる、視野狭窄の教育が蔓延することにもなる。
同じことは受験教育にもある。
成績を上げることが最優先となり
小手先のテクニックを教えることに走る。
だから
分かっていないのに、解き方マニュアルだけはたくさん知っているという頭が出来上がる。
若者に本当の考える力、受験の後につながる学力をつけようという発想をハナから持たない受験指導がはびこるのである。
これは一重にその国の大人のレベルに規定される。
子供の長い人生に思いを致しもせず
甲子園、甲子園とお祭り騒ぎを繰り返し、
甲子園で優勝することがあたかも人生の成功であるかのような錯覚を
10代の若者たちに持たせるならば
あまりにレベルの低い社会ということになろう。
勇気を持って投手を登板させなかった32歳の若い監督が出てきたということ
そして
それに対する理解と賞賛の声が少なからず上がっていることに
せめてもの救いを感じる。
甲子園が悪いのではない。
本質的なブレーキを大人たちがしっかり持ったうえでの
“甲子園祭り”であるべきだろう。
受験指導において
GHSはその若き監督側の立場であることははっきりと表明しておきたい。