コロナウイルスが問うているもの

今回の新型コロナウイルスの蔓延は、世界中を混乱に陥れるとともに、それによって現代社会が抱える様々な問題があぶり出されることになったとも言える。私が特にまず深く考え込まされ、陰鬱にさせられたのは日本の現状である。端的には、日本はこんなにもレベルの低い国になっていたのかと慨嘆させられたことである。

政治家、官僚、研究者、つまりトップに位置し国をリードしていくべき人々が何とも力量不足であることに大いに落胆させられ、日本の今後を憂えさせられたのである。

毎日発表される「感染者数」にそのすべてが集約されていたように思う。新型コロナウイルスの蔓延状況を、私たち国民は「感染者数」の上昇で知らされ、有名人の死のニュースの衝撃であおられることになった。それがどれほど冷静な分析と判断を失わせていたかは「感染者数」の一人歩きと、「感染者数」という与えられたただ一つの指標に基づいての、政治家、官僚、専門家、マスコミを含めた議論や判断や結論として現れ、国民全体を巻き込んでの行動として結果していったことである。

政治の貧困

議論の根拠となっている「感染者数」とはどういうものか、私たちは知らないのである。ただ数値のみが与えられる。何人を検査した上での「感染者数」なのかさえ情報がない。どこでどういう人たちを検査したのかはなおさら与えられない。「感染者数」をもとに議論するのになくてはならない「周辺データ」が何もない。それで一体何を議論できるのか、である。例えば、昨日の「感染者数」が50人、今日が80人。もし、検査数が昨日100人、今日160人だったら、感染が広がっていることの証拠にはならない。しかし、お構いなしに「感染者数」たった一つの数字で議論をしている。

そもそも「周辺データ」を取っていないのか。集計できないのか。とすればそれをしない、できないこの国のお粗末さを嘆かなければならない。ヨーロッパ諸国や韓国は日本より何倍も多くの検査を実施しながら、「周辺データ」を集めている。それができないとすれば、日本は何という発展途上国であろうか。後で明かされたことには、検査機関がその集計データをFAXを使って送っているという。保健所を中心とした感染症の検査体制のオンライン化が図られていなかったのである。世界第3位の経済大国の現実である。

「周辺データ」を国民が与えられなかったという問題も同時にあるようである。隠されたということである。それは隠さなければならない何らかの理由があったからである。日本は感染症のパンデミックが起こった場合に備えた医療体制を整えていないという現実を隠したかったのであろう。政治家、官僚は先見性のなさ、怠慢のそしりを受けることになる。日本の政治組織・官僚組織が縦割りで、それぞれが権限と利権を抱え込んで縄張り意識が強いという問題を俎上に乗せられたくないのである。彼らは国民の命よりも、自分たちの利権と面子が大事だと考えているということになる。

日本の医療体制が急激な感染拡大に対応できる収容能力を準備していなかったということが今回の最大のボトルネックとなっていたようである。それがマスコミで明かされながら、政府および関係機関は明言を避け、マスコミに登場する専門家はそれを既成事実としてともかく当座の対策を議論する流れになっていった。患者が殺到し医療崩壊を起こすことがないようにすること、これが最優先事項になった。その結果、体調が悪い患者をできるだけ診療から遠ざける。「37.5度以上が4日間続き、・・・」というある一定条件を満たさなければ、診察さえしてもらえない。それをあとになって厚労大臣が「目安であって、基準ではなかった。誤解された。」と答弁する。この条件のために診療を受けられず亡くなった人々が少なからずいるにもかかわらず、である。国民の命より、自分たちの責任を逃れ、面子を守ることが優先なのである。

日本は昔から「経済一流、政治三流」と言われてきた。残念ながら、今や経済も一流ではなくなっているが、政治は今も昔も胸を張って誇れる対象ではない。それでもまだ昔の方が指導力のある政治家、広く深い思索を持った政治家がいたと思うが、今の政治家にそれを感じられる人は少ない。GHSが教育の場である以上、政治一般を語ることは許されても詳細に入ることはご法度であるから、これ以上政治に立ち入ることはしないが、政治のあり方で国民の生命が左右される。今回は直接生命にかかわる問題であったし、実際少なからぬ国民が犠牲となっていることを考えれば、政治家と官僚のレベルの低さが声高に叫ばれてよいと思う。

先日後藤新平を扱ったドキュメンタリー小説を読んだところであった。第7代東京市長(1920~23)でもあり、鶴見和子、鶴見俊輔姉弟がその孫であることをご存知の方も多いと思う。後藤は関東大震災のときに(この時は国会議員であった)、先頭に立って国家百年の先見をもって首都再興を進めようとした。しかし、利権を保守しようとする地主およびその支持を受ける反対派政治家に阻まれて、計画の縮小を余儀なくされていく流れをドキュメンタリー小説として活写したものである。いつの世も、私欲に走る者がいる一方、国家・国民全体を考えた真の政治家もいたものである。今台湾が親日的であるのは、植民地時代に後藤新平が児玉源太郎の下、行政長官として台湾人民のための制度作りを行ったからである。ちなみに、児玉源太郎も人物であった。日露戦争を前に、欧米の各国がロシアの勝利を疑わなかったのに対し、ドイツのある将軍だけが日本の勝利を予言した。彼は理由を問われ、「日本には児玉がいるからだ。」と答えたエピソードがある。ともあれ、そういうレベルの政治家が果たしていま日本に何人いるだろうか、という問題である。

今回の新型コロナウィルスへの対策がいかにも歯がゆく、国民の要求と大きくずれ、何にしてもその意思決定と実践のスピードが遅いと感じたのは、国民のほぼ全員であったのではないだろうか。検査体制、感染者の収容方法、必要物資の調達、経済の下支え、国民の明日の生活の保証、教育行政、国境管理・・・、事が事だけにあらゆる方面に影響が及び、すべてを総括し、統括して整然と事を動かす必要があった。それを今の日本はできないということが世界中に知れ渡ったといってよい。時代が時代なら、隣国はこんな国にはすぐに攻め入ったであろう。簡単に属国にすることができる。それくらい恐ろしく情けない国の状態である。

研究者の貧困

もう一つ、失望せざるを得なかったのは、学者、専門家の実力である。ウイルスや感染症についての研究があまりに貧困なのには驚くほかなかった。確かに、ウイルスが細胞に入り込み、増殖していく仕組みや、それに対する人体の防衛のメカニズム等々についての専門的知識は詳細に研究されていることは分かる。しかし、そもそもウイルスとは何なのか、生物(人間)にとってウイルスとは何なのか、どうかかわっているのか、なぜ新型コロナウィルスは人間にとって害悪なのか、害悪なのはこのウイルスの問題なのか等々については何も話されないのである。ウイルスに感染する人としない人との違いは何か、感染しても軽症の人と重症の人との違いは何かを年齢や持病の有無でしか語れないお粗末さである。年齢や持病の有無で病気の軽重が異なるのは何も新型コロナウィルスの場合だけではないであろう。

たまたま私は今回のパンデミックが始まる直前、肺の気胸という診断で、ある大学附属病院に9日間ほど入院した。医師に気胸の原因を尋ねるとよく分かっていないとの答え。「体質もあります。喫煙はよくありません。」(ちなみに私は20代の10年間喫煙者であった)と、気胸に対する答えではなく、肺の病気一般、否病気一般に対する答えであり、まったくもって答えにならない答えしか返ってこない。私は「医学界というのは何をやっているのだろう?」と呆れながら聞いたのである。手術の方法や医療機器はどんどん開拓・開発されて進歩している点には目を見張るものがある。しかし病気そのものについての研究がこれほど貧困では、病人をどんどん増やして、手術方法や機械をどんどん開発するというイタチごっこをしているようなものである。病院や医療系企業はそうしたいのだろうかとうがった考えも起ころうというものである。世界に何万人という気胸の症例があるのだから、そしてこれだけコンピューター・AIが発達しているのだから、本人の生活習慣から食事の傾向を含めてあらゆるデータを集めれば、その病気の原因を絞り込むことはさほど難しくないはずである。しかし、そういう研究は全くやっていないようである。そうしたデータを集めようという気はさらさらないようで、医師たちが病棟で真剣に見ているのは血液検査のデータであり、レントゲン写真やCT画像ばかりである。

今回ほど学者・専門家の見解が人々の生命と生活の両方に根底的な影響を与えたケースも少ない。直接の疾患だけでなく、旅館や飲食店などの零細・個人事業は経営者・従業員ともに、これから生きていけるかどうかというレベルの影響を受けることになったからである。その生殺与奪を学者・専門家の分析が全面的に負ったのである。学者・専門家という肩書を付けてテレビに登場してくれば、一般視聴者はその意見を正しいものとして受け止める。

その学者・専門家が、またしても「感染者数」ただ一つの指標で、解説し、議論する。「今日も増えた、たいへんだ!」とやっている。何人に検査したかさえ示されない。どこでどういう人たちに検査して、どう集計したかは一切伏せられている。これで議論して何の意味があるのだろう。高齢者施設で年齢調査をして、「日本は高齢者が多い!」と議論を始めるようなものである。実際、「ある日の感染者数」はその日に検査した人の結果ではないという。そのことさえ明確に表示しない。二つの病院で別々に院内感染が発生し、その検査のまとまった結果が同じ日に重なって報告されたために、「その日の感染者数」が一気に多くなったということさえあったという。滅茶苦茶である。

やっと「陽性率」の数字が出てきたのが、五月中旬である。それでまた議論が始まる。しかし、この陽性率もどういうデータの取り方をしたのか分からなければ、やはり使い物にならない。体調が悪くて、感染しているかもしれないと誰かが判断した人に対して行なった検査では、そこに人の判断が一度通っているのであり、また医療機関に訴えたり、医療機関が保健所に依頼したりという基準が恣意的にまた変化しているなど、もはやデータとして果たして成り立つのかという問題のレベルである。

こうしたデータをもとに、国から緊急事態宣言が出され、自治体から休業要請・外出自粛要請が出されて、国民は「巣ごもり」を余儀なくされたのである。「三密」はダメ、換気をすべき。しかし空気が一番流れている潮干狩りもダメ。ジョギングも数m以上離れなければダメ・・・とテレビでやっている。学者・専門家の助言に従って、である。

さて当の学者・専門家の方々はどれほど自信と責任をもって、自分たちの発言に従ったこの国民の行動を見つめていたのであろうか。経営者の自殺が出たニュースを見て、負い目はないのであろうか。果たして家から出ないことが正解だったのであろうか。外に出て紫外線を浴びた方が良かったのではないか。自然と触れ合うべきだったのではないか。何しろ、そういう研究をやっていないのである。

国民は、学者・専門家の意見を尊重しながらも、一定程度自分のカンで動いている。私はこれは国民のバランス感覚の良さだと思っている。学者・専門家たちを「先生、先生」と持ち上げながらも、しっかりと本音のところは自分の直感を働かせて動いている。学者・専門家たちの底の浅さを実は見抜いてもいるのである。もし感染すれば100%死に至るものであれば、誰一人外には出ないであろう。しかし国民は知っているのである。偏った研究をやってきた学者・専門家よりも、現実の世界の人生経験で蓄えてきたカンと嗅覚が現実を見定めているのである。

5月7日、当初予定していた緊急事態宣言の解除が延期となり、継続されることになった。にもかかわらず、電車にはどうっと人が戻ってきた。みな分かってきているのである。もちろん以前と同じレベルではない。全体としてのバランス感覚が働いているのだ。どこかの報道番組が取材していたのであるが、数人の若い会社員が、会社帰りに陸橋で缶ビールを開けている。楽しそうである。「居酒屋が開いてないので、電車がすくまでここで仲間と飲んでます。」という。何一つ悪いことはないではないか。自分自身の心と身体の、会社の仲間の、そして社会全体のバランスを取っているのである。

コロナウイルスが突きつけるもの

国民の生活に指針を与える立場にある人々が、緊急事態宣言の解除後の行動様式を作成しつつあるようである。かりに緊急事態が終わったとしても、もう以前と同じ生活には戻れないと言う。「三密」がダメは当然として、人との距離を一定に保ち、コンサートやスポーツ観戦など多人数が集まるイベントは避けるべきとの雰囲気がつくられつつある。観光・宿泊の旅行さえ敬遠されるかもしれない。それが新生活だというコンセンサスが創られていくのかもしれない。

しかし、何かおかしくはないだろうか。「ソーシャル ディスタンス」という響きの良い(?)スローガンとともに、人と人が近づいてはならない生活様式・・・。それでいいのだろうか。なぜなら、これは生物の一般性に反するからである。人間はまず生物である。生物は集団でしか生きられない。人間は寄り添ってしか生きられないのである。サルが真冬に一塊に集まり団子状になって寒さをしのいでいる映像がある。あれが自然なのである。もちろん、人間があのままの現象になるというのではない。しかし、人間同士がつながっていないとおかしくなっていく現象にその一般性が貫かれていることが見て取れるはずである。今朝のテレビで、禁酒をしようとしている仲間が定期的に集まって励まし合い、目標を達成していたが、外出自粛でそのつながりが断たれ、またアルコールに手を出してしまった人を紹介していた。「本人の意志が弱いだけではないか」と言うなかれ。ここはそういう問題ではないのである。人間は大なり小なりそういう社会的生き物だということが核心であって、目的のレベルの問題ではない。テレワークというものがいかに人間性に反しているか、いずれはっきりと出てくるであろう。昭和の大家族、家族全員和室で雑魚寝の時代から、子供部屋ができて一人一人が隔離されていった流れで子供の精神的健全性がどう変わっていったかを考えてみるべきである。人間性、生物性に反する生活をエスカレートさせていったらどういうしっぺ返しが来るか、今のうちに考えるべきであろう。

では、なぜそんな生活をしなければならなくなっているのか。「コロナウイルスのせいなのだから、仕方がないではないか!」という声が上がるだろうか。果たしてコロナウイルスが悪いのか。人間は被害者なのか。そもそもなぜ人間に病と死をもたらすウイルスが出てきたのか。

ウイルスに声と言葉があったら、人間に対する怒りの声と言葉とをあらんかぎりに浴びせるのではなかろうか。声と言葉がないから、病気という形で人間に反旗を翻しているのだ。ウイルスはただ自然のままに生きているだけである。自然を無視し、破壊しているのは人間なのである。人間の文明である。でも仕方がなかろう。人間は出現してしまった以上、文明を築いていかなければならない。しかし、それは条件付きである。自然と調和を保ち、生物と共存しながらである。

今人間は自然とのその協定を思いっきり破っているのだ。だから物言えぬ自然はウイルスのパンデミックとして警告を発しているのである。しかし研究者・専門家はそれには一切目を向けない。コロナウイルスをやっつける方策を必死に探るばかりである。それが科学の進歩であると疑わない。人間は愚かである。

昔から愚かなのか。愚かになってしまったのか。文明が進むほどに愚かになる悲喜劇。コロナウイルスは人間に現代の文明の質を問いかけているのであり、現象レベルでの生活様式ではなく、生産様式レベルでの人間社会の歴史的変換を突き付けているのである。