2021年がスタートした。
毎年「今年は良い年になるように」と誰もが願う。
さて今年はどういう年になるのであろうか。
しかし、良い年、悪い年というものがあるのではないのであろう。
何があってもそれを良いものに変えて行くのが人間なのだ。
昔、
「憂き事のなおこの上に積もれかし。限りある身の力ためさむ!」と立ち向かった先人もいれば、
「我に七難八苦を与え給え!」と月に祈った偉人もいたことである。
これほど偉くはなれないにしても、「憂き事」にただ打ちひしがれているわけにはいくまい。
去年からのコロナがまだ猛威を振るい、
日本の指導者は迷走し、非難を受ければ弁解と責任転嫁を図る臆面のなさを晒している。
だが、その指導者を選んでいるのは私たちである。
「憂き事」はさまざまな問題をあぶりだしてくれる貴重な存在でもある。
今猛威を振るう「憂き事」は現代日本人全体の実質を問うているのではなかろうか。
「憂き事」は日本人の質を上げよと命じてるのではなかろうか。
IT教育の普及、実用英語の教育・・・それも必要であろう。
しかし、それは日本人の質の問題とは次元が違う。
技能、技術レベルの問題に過ぎない。
そうではない。
今問われているのは、もっと深いところにある、
時代を超えた「人間の質」の問題であろう。
日本人の知と理と徳や如何、を問われているのだ。
できればはやくこの「憂き事」が収まってほしい。
しかし、一方でこの「憂き事」の中で
我々自体の質を問う議論が嵐のように吹き荒れてほしいと思う。
現代という時代が、そしてわれわれ現代日本人が抱える問題を
その本質に深くさし込んで抉り出すべきである。
それがこの「憂き事」で失ったもの、そしてこれからまだ失うであろうものを取り戻して
なお余りあるものにする唯一の方策ではないだろうか。