昔、小さな親切運動が謳われた時代があった。
一方、「小さな親切、大きなお世話」という
揶揄的な軽口が笑いを取った時期があった。
親切とは難しいものである。
最近は、きめ細やかさの時代である。
JRの駅では、電車が入線してくると音楽が鳴るようになった。
注意を促すためであり、
殊に目にハンディキャップを持つ人への親切なのであろう。
だからそれを「うるさい」と言えば、反社会的になる。
それでもその音楽がLINEの着信音のメロディーに似ている(ものがある)のは
ひと工夫ないものか・・・。
もともと日本の電車はアナウンスが多すぎて
外国人からうるさいと言われている。
学生時代にヨーロッパを旅行した時、
発車のベルもならずに、いつの間にか電車が動き出したのに驚いたことがある。

ネットではいらない情報が次から次と
「親切」に送られてきてうるさい。
これは現在が資本主義社会であることから来るもので、
「親切」を装ったお金儲け目的でしかない。
しかし、金儲けでの「親切」は別として、
たとえ善意の親切(不自然な物言いであるが・・・)であっても
それが本当に必要なのかどうか、検証が必要であろう。
親切というのは相手にとって良いことなのかどうかが是非の判断基準である。
教育の世界はその見極めがとても重要な要素となる。
たとえば、分かりやすく教えることは「よい親切」なのかというと
必ずしもそうではない。
なぜなら
ともすると、自分から分かりに行く主体性、よじ登る力が付かないからである。
噛み砕いて教えれば、噛み砕くほど良いというものではない。
私は最近日本の大人のレベルが下がっていると思っている者なのだが、
それは一つに、
そうした立体的な二重構造が認識できない大人が増えているように思うからなのである。
現象を薄く捉えるだけで、その本質に立ち入って理解しようとする大人が減っていると思うからなのである。
表面的な親切と本質的な親切をしっかり見極めて、
ときには「親切な厳しさ」、「親切な突き放し」をそれと理解できる大人が
減っているのではないか。
文科省が
すぐに成果が上がる理系学部を優先し、
哲学科などの文系学部学科を縮小するよう通達を出し話題になったことがある。
効率性の重視、目先の利益優先の思想の蔓延が
政策のレベルを短慮で暗愚なものにし、
すべてが相俟ってそうした傾向(日本人の劣化)を助長しているように思えてならないのである。