教える側のレベルが下がっているというのは時々耳にする話である。
先日ある新聞に次のような紹介記事があった。
ある生徒が数学のテストで教科書と違う解き方をして答案を出したら、
内容は正解であるにもかかわらず、バツにされたという。
何か深い教育的意図があって解き方を限定しているわけでもないとのこと。
先日GHSのある高校生が持ってきた大手予備校の模擬試験の答案を見て驚いた。
英語の下線部訳の部分が半分減点されている。
どう調べても答案の中身は全く問題がない。
少し細かい話になるが、
英語の関係詞の用法に限定用法と非限定用法というのがある。
たとえば、
限定用法の例が 「He has two sons who are doctors.」
非限定用法の例が 「He has two sons, who are doctors.」
前者は「彼には医者の息子が二人いる。」と訳し、
後者は「彼には息子が二人いて、二人とも医者だ。」と訳す、
と教えるわけである。
後者は息子が二人しかいないことが明示され、前者は医者以外の息子が他にいる可能性を残すと説明される。
それは良いとして、問題はここから形式だけが独り歩きして、
限定用法を日本語訳するときには関係節を先に訳して
「○○である息子」のように訳し、
非限定用法を日本語訳するときには関係節を後ろに持ってきて
「息子がいて、彼らは○○だ」と訳すとの中身のない指導が始まるのである。
先ほど紹介した模擬試験の採点は、まさにこの例で、
英文が限定用法として表現されているものを、非限定用法のように訳したことにより点数が半分にされているのである。
しかし、たとえば「That is Mt. Fuji, which is the highest in Japan.」を
「あれが日本で一番高い冨士山です。」と訳して何の問題があろう。
ある英文をどう訳すかは、
前後の文脈や筆者の意図や日本語と英語のニュアンスの違い等々を総合的に判断することで決まるものである。
その知的格闘こそが学力を付けるプロセスである。
上に紹介したようなケースは最近そこここで目にし、耳にするものの一部に過ぎない。
つまり、
中身のない形式だけを押し付ける指導が実は日本全体に広く蔓延しているのである。
GHSのホームページでも紹介しているが、
小学生に、「速さと距離と時間の関係」を理解させるのに
「は・じ・き」(「き・は・じ」または「み・は・じ」というところもあるそうだ)に当てはめて問題を解くように教えるといった形式主義。
東大受験に向けたある予備校の論述対策の授業で、こう教えた講師がいたという。
「30字で述べよ」とあったら、一つ、
「60字で述べよ」とあったら、二つのことを書きなさい。
もう何をかいわんやである。
教育に携わる人々の中にこういうレベルの指導者が増えれば
日本の将来はますます寂しいものになっていくだろう。
受験とは知性を磨く場であり、大学入試は知性のレベルを競う場であるはずだ。
もう一度本当の知性とは何かを日本の大人たちが真剣に考えるのでなければ
取り返しのつかいないことになるだろう。
日本の半導体技術が世界に遠く及ばないレベルに遅れてしまった悲しい現実が
報道で大きく取り上げられているが、
その根底に日本の教育のこういう現実があることに
政治家、官僚、大学・高校・中学・・・すべての教育関係者はもとより
すべての日本人が目を向け、
目を覚まさなければならない。