大学入試は現実的な競争であるから、
倫理的、人情的な「こうあってほしい!」というのは
残念ながら通じない。
「努力した受験生ほど合格してほしい」
「医師に向く好人物こそ医学部に合格してほしい」
といったことがそのまま実現するとは限らないのである。
私の大学の恩師がかつて次のようなことをおっしゃたことがある。
「父親の役目の一つは、子供に世の中の不合理を教えることだ。
努力が必ず報われるとは限らない。
正義が必ず勝つとは限らない。」
もちろんその真意は、
だからこそ、努力すべきなのだ、ということである。
世の中にはしっかりと合理性が働いている。
力があるものが勝利するという合理である。
だから、志を立てたならば、力を付けなければならない。
しかし、その力を付ける過程は今日頑張ったから明日その成果が表れるという単純なものではない。
何度も報われない連続を経た先に大きく表れるものなのである。
それが不合理でありかつ合理であるという中身である。

受験の世界にもそれがある。
大学受験はいわゆる“地頭(じあたま)”が良い生徒がスイスイ合格していく。
有名進学校の生徒はやはり強い。
中には
一応試しに受けてみたら入ったとか
赤本(過去問)を一切見ずに合格したというケースがざらにある。
“地頭”とは何か。
いわゆる生まれつきの知能指数(IQ)の高さもあろう。
幼年期から小学校までに何らかの訓練がなされてきた(意図的、偶然的を問わず)ことによる面もあろう。
いずれにしても、記憶力が良かったり、頭の回転が速かったり・・・
そうした能力を持っている方が受験に強いのは当然で、合理的である。
“地頭”のよい受験生はどういう指導者に教えられてもそこそこ伸びていくし、
また自分でよい勉強方法を見つけていく傾向も強い。

問題なのは“平凡”な受験生が高い目標を掲げたときである。
GHSは最初からここに照準を合わせてきた予備校と言ってよい。
正直なところこれは苦労の多い道であり、損な役回りでもある。
それはさておき、この場合
“最良の学習方法”と“最大の努力”を要するのは当然であろう。
大学受験に必要な学力とはどういうものかの分析が必要であり、
そもそも「分かる」とはどういうことかを分かっておかなければならず、
どういう順序を踏んでいく必要があるかを研究する必要があった。
おかげで
高校の先生に医学部は無理だと言われた生徒が合格したり、
一年で生徒の顔が明らかに変わっていくのを見ることができたり、
それが“地頭”の良い生徒に適用されるととんでもない成長を見せたり
卒業生の大学進学後の成績が良かったり
保護者の方に人間的な成長を感謝されたり
・・・・・
といった主産物・副産物がたくさん生み出されてきた。

今年大学進学が決まった受験生には心からお祝いを述べると同時に
結果が出ていない諸君も悲観しないでほしい。
道はあるのだ。
むしろ今まで知らなかった新しい世界と出会えるかもしれないのだ。
諦めないことも才能の一つである。
安易に妥協せず
先を見て希望をもって進んでほしいと願う。