3月下旬である。
これから私大医学部の補欠繰上りがいくつか出るだろうが、
今年の大学入試もほぼ終わりとなる。
国立大学医学部へは昨年と同じ6名が進学していく。
前回も記したが、今年の入試がいずれの結果になったにせよ、
未来のある若者なのであるから、
次に向けてそれぞれに希望をもって進めばよいのである。
さて、
大学時代の友人から、一枚の写真が送られてきた。
母親が亡くなり、実家を整理していたら出てきたとのこと。
40年以上前の学生時代の仲間の写真であり、感慨深く眺めたことである。
思うのは時代というものが大きく変わるものだということ。
そしてそれは誰も予想できない時代へと変わるものだということである。
当時ソ連崩壊も予想できなかったし、
当然、そのあと今回のようなロシアの暴走がくることも予想できなかった。
もちろん、コロナが世界をこれほど変えることを誰も予想できなかった。
だからこそ、これから人生を始める若者は
時代の変化で使えなくなってしまう狭く浅い実力ではなく、
本質的で普遍的に発揮できる「本物の実力」を付けるべきことを
GHSは開校当初から主張してきたのだが、
このことの正しさを
今の激しい時代の変化がますます後押ししてくれている感がある。
受験勉強で何を得るのか。
たとえば、大学に合格するためには数学を学ばなければならない。
しかしそこで培うものは
数学の問題が解けること自体ではない。
数学を使って
モノを見る目、筋を通すアタマを養うのであり、
広い視野、思考の柔軟性、体系的大局的実力を創造するのである。
にもかかわらず、
合格を焦るあまり、
解法マニュアルを覚え、多彩な別解を教わり、
その問題、そのテーマにしか役に立たない知識を吸収することを良しとする学習をするならば
折角の若い時代、若いアタマを無駄に使うことになる。
そのことの虚しさを10年後に知ることになるだろう。
その是非を正しく知って、まだ知りようがない子供たちに教えるのは
教師であり保護者である。
つまり大人たちの責任であり、責務である。
今回のウクライナの悲劇を見れば
大局観なく、当座の個人的利益を求める者が指導者となった時に
いかなる阿鼻叫喚の悲劇を生むかを私たちは目の当たりにしている。
それは一人国家の指導者だけの問題ではなく、
若者を相手にする我々大人たちにも無縁ではないことを
まさに私たちが大局的な、本当の思考力をもって自問自答すべきなのではないか。
大学受験が愚かな競争になってはならない。
それを正しく導けるのは大人たちであり、
保護者も教師も正しい眼力を持たなければならないのである。