このホームページの書籍購入のコーナーで紹介している『思考訓練の場としての英文解釈』は
受験生に限らず、結構年配者からの注文も多い。
受験とは別に、また人生経験を経て、
じっくりと知的な活動を楽しみたいという方々が多いようだ。
『思考訓練の場としての英文解釈』はGHSでテキストとして使っているわけではない。
私がいくつかの英文を論理的思考の訓練の目的で使うことがある程度である。
本来言語というのは、思考するためのものであり、
英文を読むとは、英文の筆者の知性と格闘し、
その認識の深みと機微とを細大漏らさず掬い取ることである。
多田先生がこの著書を書かれた時代の大学入試英語はそれを受験生に求めていた。
しかし一方で、言語を
ただ単に日常生活+αレベルでの“コミュニケーションの道具”と割り切ることもできる。
ご存じの通り、今の大学入試英語は
どんどんと「日常会話レベルで英語が使いこなせるか」という視点に移っている。
英語の文字通りの内容をそのまま取れればよく、
その表現の裏にある筆者の意図をくみ取る、文脈から論理的に正確な意味を確定していく、などという知的活動は必要ない。
したがって、大学入試と言いながら、英文の内容は中学生が理解できるレベルである。
問われるのは英語そのものへの“慣れ”の問題となり、
英文は嫌というほど長く、
試験時間は内容を取る暇もないほど短い。
皮肉を込めて言えば、“思考させない入試問題”となっている。
だから、日本の大学入学共通テストは英米の中学生が満点取れるであろう。
気の利いた小学生でも取れるのではないか。
かつてニューヨークに住んでいたという帰国子女の高2生に
日本のセンター試験の英語のレベルは向こうで言えばどのくらいかと尋ねたところ
「小学5年から中学2年でしょうか・・・」との答えが返ってきて驚いた。
一度英語の問題を全部日本語に翻訳して全国紙に掲載してみてはどうか。
その内容の薄さに、国民はみな愕然とするのではないだろうか。
だから今の大学入試に『思考訓練の場としての英文解釈』レベルの知的作業は必要ないのである。
唯一いまだにそのレベルを要求しているのは京都大学くらいだろうか?
他方、大学受験とは無関係に
純粋に知的営み、知的格闘として『思考訓練の場としての英文解釈』に取り組む方々がおられるのはうれしいことである。
先日購入された方は私と同年代の方のようで
この夏、千本ノックでも受けるようなつもりで取り組みたいと
その並々ならぬ意欲を伝えてこられた。
多田先生もこうした読者が多数生まれてきていることを喜んでおられるのではないか。
社会の根幹を支えるべき知性に関わる本は
やはりその価値を理解する知性に受け入れられて
やがて“古典”として後世に残っていくのだろうと思う。
そういう日本であり続けると信じたい。