法律としての規範は外側からいつでも作れるのであるが
人間としての内なる規範は
二十歳までの教育でその根幹が創られる。
つまり、子供時代の親の教育、
友達、親戚、町内の人々との接触
学校での教育、テレビその他のメディアの影響、読書等々
要するにありとあらゆる社会的関係で大きく決められてくる。
昭和30年代、40年代を懐かしがる風潮は
こうした社会関係が厚く、密であった時代の温かさへの
ノスタルジーなのだと思う。
逆に言えば、それだけ現在は
間接的情報は溢れるほどに増え続ける一方、
直接的な社会関係は薄く、冷たくなってきているといえるのだろう。
二十歳までの多感な時代
本来最も大きな命題となるのは
人生如何に行くべきか、であるはずなのに
よい成績を取ること、どうしたら経済的に楽に生きられるか・・・
であっては社会が明るくなるはずがあるまい。
私が、よく漢文や重い内容の英語を推奨するのは
内なる規範を形成するという意味で
それらが重要な材料になるからである。
もちろん、国語でそれをやればよいではないかとの
意見があろう。
それは当然充実させてほしいと思う。
人格形成の大事な時期に
しっかりした古典的純文学を読む社会的習慣が
日本の子供の常識となるよう大人が動いてほしいと思う。
現代文の授業が
中学高校でもっとも人気のある授業であってほしいと思う。
しかし、外国語の学習には
またプラスアルファーがあるのである。
漱石や鴎外レベルの明治の文豪に果たした漢籍の役割、
旧制高校生に果たしたドイツ語の役割、
その意味をもう一度問い返して
大学入試の英語がいかにあるべきかを
考えてほしいのである。
英会話ができるようになることが
悪いとは思わない。
しかし、英会話は大学入試の世界の話ではないのであり、
英会話を上達させたいなら、大学受験とは別な場でやればよい。
さらに
日本にいて英会話ができるようになるには
膨大な時間の無駄を覚悟しなければならない。
本当に必要だと思う人は、1年くらい英語国で生活するのがよいだろう。
英会話の習得で得られるものは
大学への知性というレベルとはほとんど無関係である。
大学へ向かう勉学は
あくまで人間としての内容の充実が本質でなければならない。
そうした視点を失った教育がどういう人材を量産し
それが社会にどれだけ大きな不幸を与えるかは
社会保険庁の杜撰さにはじまり
今表面化している
霞ヶ関官僚のタクシー業界からの袖の下
というやり切れぬ現実が
日々証明しているのではないだろうか。