人間は目的をもつ存在である。
目的を持つことができるという意味ではなく、
目的を持たないとだめになる、
目的を持たないと病気になるという意味である
といったら、言いすぎとの批判を浴びるだろうか?
しかし、精神的に病んでいる人は
何らかの原因で目的を持てなくなった
奪われてしまった人々である。
人間にとって目的というものはそれほど重大なものだと
私は思っている。
これは何も人生の目的といった大きなものに限らず
目の前の勉強にも当てはまるのである。
数学に三項間の漸化式というものがある。
これには特性方程式というのがあって
これを使えば見事に問題が解ける。
ちょっと勉強してきた生徒は
それを使ってスラスラと問題を解いてみせる。
しかし、この特性方程式が何もので
何のためにあるのかということを理解していないと
ちょっとひねられた途端に
問題が解けなくなってしまうのである。
受験勉強で一番まずいのが
「何のために」という問題意識抜きに
こういう機械的な勉強の仕方を生徒に押し付けて
何の罪の意識も持たない教師たちである。
生徒の立場に立った「何のために」という問いがないために
生徒に機械的な操作としての受験勉強を強いることになるのである。
今の生徒はとても素直である。
「生徒が言うことを聞かない」という教師は
生徒に自分を心服させるだけの力量を自らが持っていないだけのことである。
生徒は素直であるだけに
どう受験勉強を指導するかの責任は大きい。
先の特性方程式のように
分かっていないのに分かった気にさせるだけの
受験指導もありうるのである。
怖いことである。
しかし、まじめに「何のために」を問い続ければ
物事は体系的になっていかざるを得ない。
GHSが体系を重視するのは
生徒に本当の実力を付けさせることを問い続けた
結実なのである。
GHSの生徒は明るく健康的である。
それは「何のために」があるからにほかならない。