頭の中を伝え合うということは
本来至難というより、無理な話である。
しかし、人間は必要なもの、共通するものを
最小限伝え合おうとして言語を生み出した。
それでもアタマだけでなく、
ココロを伝えようとするとさらに難しい。
国語で小説文が苦手という生徒がいるが
登場人物のココロが読めない。
そういう生徒にそのココロを伝える国語の教師はたいへんである。
学校にはいろいろな教科の教師がいて
それぞれにその教科・科目の面白さもあろうし、
たいへんさもあるだろうが、
見ていて国語の教師ほどたいへんなものはないというのが
私の勝手な持論である。
しかも、国語の入試問題の中には
特殊な人間の特殊なココロを扱った小説を出題する悪問も多い。
そこへ行くと古典はよい。
古典として残ってきていることが証明する
人類共通のアタマとココロが盛り込まれている。
現在の教育課程では古典があまり重要視されていない。
高校生にとって古典こそが
成長期に大切な根幹となるアタマとココロを形成する
良質の教材だと思う。
選挙権の年齢引き下げや
精神の未熟からくる犯罪の増加を思うにつけ
古典の復権こそ
迂路に見えて実は解決への近道なのではないかと思えてならない。