動物は自分中心である。
自分がエサにありつくこと、自分の身を守ること。
しかし、群れの中に掟があり
掟を超えることはしない。
掟を破って“自分だけ”の行動をとれば
群れ自体が滅びることを本能として知っている。
本能として制裁を受ける。

人間の赤ちゃんも自分中心である。
成長するにしたがって周りを考え、社会全体を考えて行動するようになる。
しかし、人間の場合それは本能として自然にではなく
学習によってである。
長い間の学習を積み重ねた人類の知恵を継承していくことによってである。
人間は社会として生きていくこと、
“自分だけ”は許されないことを学習しなければ
その社会は傾いていく。
いずれ知らず知らずのうちに危険水域に入っている。

人間はこれをいつどのように学ぶのか。
小さい頃の母親や父親からの躾(しつけ)、
小学生時代の友達同士の密な“おしくらまんじゅう”、
中学、高校の部活・・・
その上にやはり人類の知恵・文化遺産を学ぶことによって
さらに高度なものにしていくものである。

「人類の知恵・文化遺産を学ぶ」とはどうすることか。
個人としてはそういう読書によって実力を付けている人々はいつの世もいる。
しかし、それが少数派では無力である。
国民全体として一定の学びが必要である。
今にして思うと、
我々の時代の漢文や英語という外国語科目の学習は
結果としてそういう学びをしていた効用があったように思われる。
われわれが外国語文献として手にするのは
いわば古典の部類であり
世の中と人生の酸いも甘いも嚙み分けてきた教養人の書いたものである。

令和の今は
漢文は共通テストでも配点が減らされ、
受験生も共通テストにあるから、しかたなく・・・であり、。
英語はというと、高校生同士のSNSでの会話などが素材になっている。
今一体どこに先人たちが残した「人間社会とは」を学習する機会があるのだろうか。
「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」
「善い人生とは、愛によって鼓舞され、知識によって導かれる人生である。」
「人は、他人の隠れた美徳について噂話をしたりはしない。」
・・・・・
こういったことをいつ学ぶのだろうか。
学ばずに社会に出るとはどういうことか。

平気で高齢者を襲う特殊詐欺、
自分の欲望がすべて!と行動するストーカー、
カネでポストを買う議員
いや、身の回りでも
スマホに夢中で突進してくる歩行者
杖を突いた人が乗ってきても席を譲らない電車の中
・・・・
だんだん「困ったものだ」で済まなくなっていくように思えている。
私は今の日本社会に
芥川龍之介の言葉を借りれば「漠然とした不安」
を感じている。