最近、正解(権威)が正解とは限らないという現実を

日本人は日々学習させられているように思う。

菅家事件の再審無罪や

村木厚労省職員に対する検察のでっち上げ起訴も

まだ記憶に新しい。

震災以降はこれが常態のようにマスメディアによって伝えられる。

東大の最高の専門家が

「水素爆発はない」と言ったとたんに爆発する。

原発は安全だと言ってきた原子力の最高権威が口をつぐんでいる。

原発廃止の訴えをこれまで最高裁がことごとく棄却してきた。

一般の人々は東大の先生が自信に満ちて断言すれば

それは正しいに違いないと思う。

最高裁の決定は正しいと思う。

とりわけ「お上」には逆らえない精神風土を持つ

日本人はその傾向が強い。

だからこそ「お上」の罪はなおさら深いというべきであろう。

他方、われわれ庶民も実力を付けなければならない。

権威の言葉を正解とするのではなく

自分で論理をたどって正解とする訓練をしなければなるまい。

受験勉強はともすると自分の答えが

書物の「正解」と合っていることでよしとする。

書物の答えが正解であると思い込んでいるのである。

しかし、それは受験の初期の段階で卒業しなければならない。

やがて、論理的に言って自分の答えが正しいはずだと

自信を持って言えるようににならなければならないのである。

それが受験で養成すべき「力」である。

権威の「正解」に合うかどうかが基準であるうちは

まだ実力は本物ではない。

出版社の「正解」の誤りを

どうどうと理論的に指摘できる実力を養うことである。

志を低く持ってはならない。