先日銀行で待っている間、ある週刊誌の記事を読む機会があった。
周りから温厚と思われていた普通の大学生が
交番の警察官を刺し殺す事件があったが、それにかかわる記事である。
私の郷里の仙台での事件で、
昨年亡くなった父が入院していた病院を訪れる際、たまたまその交番の前を通ったということもあって、
強く印象に残った事件であった。
記事によると、
小さい頃に母親が大きな声で叱りつけ、叩く音が近所によく聞こえてきたという。
記事が正しいとすれば、何とも異常な光景である。
果たしてそれが教育効果になると思ったのであろうか。
行為の激しさからすると、自分の感情のままに爆発していたようである。
その代償はあまりに大きかったということだろう。
それにしても、怒られる子供がそのとき何を思い、何を感じるかということを
なぜ考えなかったのであろうか。
「自分が逆の立場だったら」という発想ができない大人は大人の資格がないというべきだろう。
子供の思いを考えようとしない親は親の資格がないのだし、
生徒の分からなさに寄り添えない教師は教師の資格はないのである。
思うに、
相手の立場に立つ、相手の身になってみるということが出来ない大人が増えているのかもしれない。
電車に乗っていても、道を歩いていても周りが見えていない人が多いように思う。
スマホもそれを加速しているように見える。
電車に乗ると、7~8割はスマホに夢中で、
前に老人が立とうが、杖をついていようがお構いなしである。
さらには見えていながら、われ関せずの無表情である。
気遣いができるかできないかは単なる優しさだけの問題ではなく、
知性の問題であることを分かるべきである。
子供の心に思いを致せるのは、
子供がどういう世界の中で、どういう成長の過程で生きていて
将来どうなっていくかに思いをはせることであろうし、
老人に席を譲るのはその老人の長い人生の苦労を慮り
現在の社会における私たちの幸福ががどれほどその労に負っているかを理解できるからであろう。
それは勉強において、問題となっていることの全体的状況を把握できるかどうか
ということと同じなのである。
ぎすぎすした社会は、同時に劣化しつつある社会である。
最近テレビでは「日本はすごい」の番組がはやりのようであるが、
見てみるとそれは昔の日本人のすごさに由来するものがほとんどである。
さて、現代の日本を私たちはどう創っていけるのか。
今の私たちが創って次代に残した日本を
将来の人々が「日本はすごい」と賞賛できるだろうか。
今の日本人の質こそが問われているのである。