センター試験が終わり、
いよいよ2019年度大学入試の幕が切って落とされた。
今年、GHS生で一番伸びた生徒が
一年前と比べて221点の上昇であるから、
あわや歴代最高記録(248点伸び)を塗り替えるところであった。
もちろんもともとの出発点がそれなりに高い生徒は
こういう数字を出しようがないので
伸びた点数が大きければよいということではないが、
それにしても当人は絶賛に値しよう。
むろん彼が今年一年GHSで
しっかり中身のある勉強をまじめにやり遂げたからこそである。

さて前回、「学習のさせ方がよくない」という話を書いた。
耳にする中で一番多いのが、生徒のキャパシティーを超えて膨大な作業を課すパターンである。
生徒は若い分なんだかだとこなすから、
教師は生徒がよくできていると錯覚してそれを続ける。
しかし、実際は分かっていないのであり、表面的、刹那的に対応しているだけなのである。
若い彼らの記憶力はすごいものがあるので、
分かっていなくても字面(じづら)を写真のように記憶することができる。
そしてそういう能力(分かっていなくても憶える能力)をさらに発達させる。
ただマニュアルを覚えるだけで試験に対応することができる。
当然、定期試験が終われば、すぐ忘れることになるので
実力が蓄積していかない。
次のような反論があるかもしれない。
「定期考査ではなく、ちゃんとした実力テストや模試で高得点を取っていれば
大丈夫ではないのか」
実はここが一番の論点になるのである。
実力のある生徒が模試を受ければ良い成績を出すことはほぼ間違いない。
しかし、良い点数を出した生徒が学力があるとは必ずしも言えないのである。
模試の問題の質と採点の仕方がそういう限界を持っているからである。
残念ながらこれはセンター試験にも言えるのである。
GHSもこれから2019年度生の募集が始まり
たくさんの生徒が面談に来ることになるのだが、
毎年センター試験がなかなか良いのに実力は点数の半分もないという生徒が
少なからず来るのである。
あるとき、センター試験の化学で96点を取ったという生徒が来たのだが
実は化学を何もと言ってよいほどわかっていなかったことである。
ではなぜ96点が取れたか。
どんな指導をされたのかと問うと
膨大な量のマーク式の問題を集めてきて
ただ機械的にパターンを暗記する指導をされたと言う。
とりあえず、点が取れればよいのだから、というのが
その教師とそう教え込まれた生徒の共通した認識だったわけである。
しかし、少しひねられればもうお手上げであり、
国立の二次には全く対応できない。
確かに、
「何だかだといっても大学に入らなければ始まらないのであり、
きれいごとを言っても仕方がないでしょう」
という意見もあろう。
ただ、その生徒の若い頭はそういう表面的なものの見方しかできない頭になり、
そしてそれが通じる試験は運が良い時に限られる。
果たして長い人生を考えた時に
それだけのリスクをとる価値があるのか。
その弊害の恐ろしさを考えてみようとはしないのだろうか。
“分かることを受け付けない頭”になっている恐ろしさを
私たち現場にいる人間しかわかり得ないということが
歯がゆいのである。

困難に真正面から取り組んで実力を付けようとするのではなく
安易な対処療法を創り出そうとする大人の姿勢の延長線上に
現代の日本の教育のすべてがある。
テレビのクイズ番組もそうである。
ローマ帝国の五賢帝の名前を一瞬にして答えてしまう。
観客と視聴者は驚嘆し、絶賛の喝采を送る。
夏目漱石を一冊も読んでいなくとも
漱石の書名を全て言えれば絶賛される“愚の骨頂”と同じである。
かつてこの類の番組に
アメリカやヨーロッパの有名大学の学生を連れて来て参戦させていたものがあった。
日本の大学生が素早く機敏に答えるのに対して、向こうの大学生は振るわない。
感想を求められた彼らの一人が曰く
「こういう早押しクイズはやったことがなかったので・・・」
それはそうであろう。
こんな無意味なものを“知性”とする考えは、ヨーロッパやアメリカにはないであろうから。
日本のレベルが“情けない”ことの証が彼の発言であったとは誰も思わないのであろう。
そのくらい現代の日本の大人はおかしいのである。

模擬試験と実際の入試との結果が異なる(難しい大学ほどに)ことは
昔から知られてきたことである。
逆に易しい大学では“実力なき合格”がありえたのである。
そういう入試問題をつくっていたのも現代日本の大人であり、
それを良しとしていたのも、大人である。
幸い、私大医学部の入試が難しくなってきた。
幸いというと、受験生には申し訳ないが、
ただ、真っ当な実力を求められるようになってきたという点で
日本にとって幸いなのである。
受験生は真っ当な実力を求めて動くようになるであろう。
全体としては明るさの少ない日本の未来に
少し明るさが戻ってきたように感じている。
何しろ「教育は国家百年の計」なのである。