また悲惨な事件が起きてしまった。
小学4年生の愛くるしい子供が
父親によって虐待され死亡するという
何ともやりきれない事件である。
法的にはともかく、心情としては
わが子を殺す父親は極刑に値するが、
しかし今回は父親だけでなく
大人が寄ってたかってこの子を殺したことになるという点こそ
やりきれなさの中身である。
自治体の教育委員会が
「誰にも見せないから」と言って
子供の訴えを調査したアンケートのコピーを
父親に渡すという考えられないことが起こったのである。
その理由が
「父親の威圧的な態度に恐怖を覚えて渡してしまった」
というものであった。
一番恐怖におののいているのはその子であろう。
もしそのアンケートを父親に渡したら
さらにどういう恐ろしいことが起こるのか
それが想像できないほど愚かではあるまい。
このアンケートを見て逆上した父親が家に帰ってきたとき
その子がどれほどの恐怖と絶望と虐待の苦しみを味わうことになるのか・・・。
要は大人が自分の恐怖を取り除くために
子供を犠牲にしたということになる。
自分の怖さがなくなるなら
子供がもっと危険な目にさらされても仕方がない
と考えたということである。
こういう世の中でよいのだろうか。
義侠心などどいう大きなものを持ち出そうとは思わないが、
おびえる小さな子供に
大人が盾になろうともしないとは
この国はどうなってしまったのだろう。
自分さえよければ、も極まれりである。
しかし、こういうことは突然起こっているのではない。
時あたかも
厚労省の無責任な統計処理問題が報道をにぎわせている。
それが社会にどういう害悪をもたらすのか、よりも
自分が楽な(出世を妨げない)仕事をすることが優先される。
それと同根であろう。
社会より自分なのである。
近代に入り、
日本に個人主義が入ってきた。
自由が優先されるようになった。
しかし、未熟は自由と自己中心とを履き違える。
他人に思いを致さない「自由」、
社会を理解しない「自由」が跋扈する国になってきた。
多くの人が日常感じているはずである。
それがじわりじわりと根を下ろしていくと
どういう世の中に変質していくかを
この事件は語っているように思う。
この事件をただ悲しいと思うだけで
そのおぞましさを感じない人々が多数となったとき、
そしてそれが多勢に無勢の構図をつくり始めたとき、
さてこの国はどうなるのであろうか。