仙台にいる私の姪の子供が小学1年生で、
今野球をやっているという。
親も送り迎えだけでなく練習中ずうっと観戦していなければならないそうで、
「もうたいへん!」と・・・。
子育てはたいへんである。
親のたいへんさを知る由もなく、ユニフォームを真っ黒にして無邪気に駆け回っているという。
コロナでしばらく会っていなかったので、写真を送ってもらったのだが、
カッコよくユニフォームに包まれ、
手の数倍はあるグローバルをはめ、
大きくガッツポーズを取ったり、
監督の話を真剣な目で聞いている様子の
微笑ましい写真が送られてきた。
そのまなざしの先には将来の甲子園が描かれているのだろうか?
その健康的な子供の姿を見ていると
やはり憧れを持つということはとても大事なココロの状態なのだと思う。
心のみならず身体の健康にも、未来の人生の充実のためにも
よいことに違いない。
なのにどうしてその教育がシステムとしてないのだろうか?
数学や理科や社会などの教科の教育はカリキュラムとしてあるのに
早期英語教育は叫ばれるのに
“憧れ”を育てるカリキュラム(大人たちの共通の意識)がないとは・・・。
「今の子供たちには、向上心がない、意欲が足りない・・」
人気ある将来の職業が「公務員」では・・・
と、大人たちは嘆く。
でも憧れを育てる教育をしていないのだから
それは当然のことなのではないか。
やはり大人の責任であろう。
憧れはみずみずしい感性から生まれる。
みずみずしい感性は、みずみずしい自然から生まれる。
小さい頃は野山に遊び、川に入って、海に臨み、
花を愛で、昆虫と戯れ、魚をつかみ、鳥に心を驚かせ・・・
でなければならないのに、
早くから文字を教え、机に縛り付け・・・
では、健全な憧れが育ちようがないだろう。
まずは、本当の意味で健康な社会を作ることが
今の日本に必要なのではないか。
単に
「賃金を上げないから日本経済が成長しないのだ」などという
目先の議論にとどまるのではなく
大人たちがまずみずみずしい知性を持つべきではないだろうか。
ものづくり、技術大国の日本というのは
みずみずしい感性を当たり前に育てていた
昔の日本人の遺産である。
このままではそれがほどなく潰えてしまうだろう。
本筋を見失った愚かな日本人と将来言われないように
現代の日本人は事の本質をしっかり見つめなおすべきではないか。