まもなく国立大学前期試験がやってくる。
二か月を超える入試シーズンのクライマックスということができる。
一次試験である共通テストでふるいにかけられ、
そこを通過した上位の受験生たちが記述式の試験で実力を競い合うからである。
国立大学というのは、国家にとって大事な人材を
国民の税金で育てようというのであるから、
そういう意味でも大学入試の頂点である。
その趣旨に与ってとても重要だと思われる要素は
この試験が「筆記の記述・論述形式」で行われることである。
大学入試には共通テストや私大の入試問題にみられる「選択式」という形式もある。
これも学力判定試験ではあるものの、
あくまで学力の中でも浅い部分しか測れず、
場合によってはテクニカルな方法によって点数を多少上げることさえできる。
しかし、国立大学二次試験はそうはいかない。
白紙の解答用紙に思考過程を綴りながら解答までもっていく答案は
その受験生の思考力をすべてさらけ出すことになる。
そこには視野の広狭、思考の深浅、教養の厚薄が否が応でも表れるからである。
そればかりでなく、字の書き方一つから、
その人の性格、答案を読む人に対する心遣いのあるなしさえ読み取られてしまう。
英語や国語などの言語系の科目に至っては
一字一句の使い方でその人の理解の程度が見抜かれてしまう恐ろしさがある。
これが国立大学二次試験の良さなのである。
GHSは国立大学に強い予備校と言われる。
(ちなみに国立大学に強いということは私立は当たり前ということです)
それはこのレベルの「本物の学力」を付ける教育を一貫して行ってきたからである。
確かに中高一貫の有名進学校に通う生徒はそういう点で優れた能力を持っている。
一方、そうでない普通の生徒が「本物の学力」を付けるのはそうたやすくはない。
そういう生徒にさえ「本物の学力」を付けさせるには
「学力」とは何かについての深い理解と
それに相応した「指導の方法」を持っていなければならない。
そこにGHSの本物さがある。
GHSのホームページにそれを見て取った受験生がGHSに集い、
新たな人生を始めていく。
世の中が情報処理に走り、量とスピードに翻弄されて、
本当の知性が薄くなっていく流れにあるだけに、
そういう「本物の学力」を若者たちに育てていかなければ社会が危うくなっていく懸念がある。
国立大学の二次試験がしっかりそこに視点をとどめて
まともな「筆記の記述・論述形式」で実施され続けることを
そこに投じる労力の大変さに敬意を表しつつ
日本の将来のために、願い続けたい。